「この世にしがみついてみたら」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(三十二)丸山健二
言うまでもないことですが、まだ若いタイハクオウムのバロン君や、長年連れ添っている妻のように、庭もまた生き物なのです……このたとえは、ちょっと問題ありですか。
それはともあれ、そうした常識中の常識をついつい忘れてしまい、美術作品の創作と同等の位置付けをした結果、イメージ先行の大失敗を招きがちの状況に陥ります。
つまり、一年中花いっぱいの庭にしたいなどという、とんでもない夢を命の世界へ持ちこんで、大殺戮の修羅場を生み出したりします。庭師たちは苦い経験の積み重ねによってそうした認識を深めているのですが、ガーデニングの初心者たちはその辺りがよくわかっていません。ために、生死にかかわる厳しい現実の壁にぶつかると、それだけでうんざりしてしまい、自己逃避が簡単なほかの趣味へと流れて行ってしまいます。
そんなこんなが相まって、かつて異常なほど盛り上がったブームがあっと言う間に去ったのですが、結果的にはそれで良かったのではないでしょうか。草木の命を無駄にしなくて済んだのですから。
とはいうものの、小説の世界がイメージのみで塗り固められると思うのは、世間に広く蔓延している大きな間違いです。かつて、「文学なんぞは女(おんな)子どもの世界だ」などという差別的な蔑視が横行していました。それというのも、過酷な現実になるべく触れないような、触れたとしても安っぽいナルシシズムをくすぐってくれる味付けとしてのみ利用され、浮きに浮いた、逃げない、あるいは逃げられない立場にある大人の男の目には、到底受け容れられない軽薄なものとして映ったのでしょう。
そうです、たとえ架空の世界を描く文学であっても、庭と同様、生々しい命と、その有り様を慎重に取り入れなければなりません。つまり、美学のみを優先させたものであってはならないということです。
ところが残念なことに、色とりどりのけばけばしい花で埋まった、あまりに嘘臭い庭と文学が幅を利かせ、それが主たる原因で衰退の一途を辿るに至りました。
そうした観点からも、私の庭は私の文学に多大な影響を与えてくれ、その逆もまた然りです。
それでもなお、しばしば創作の基本的な足場を度忘れします。ハスの花が泥から育って咲くという事実を意識の外へ飛ばしてしまうのです。
アンティークローズに属する種類のランブラーローズが言いました。
「作庭も執筆も始める前に人間の無能さを知りなさい」
ワイルドローズに近い種類のクライミングローズが言いました。
「逃げられないとわかったならばこの世にしがみついたらどう?」