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〈書評〉安冨歩『生きるための論語』


 私はかつて、『論語』と云う書物に対し、ある種の警戒感を抱いていた。

 理由は、学生時代に、加藤徹『本当は危ない論語』を読んだからだ。
 同書の中で、加藤は『論語』は次のような書物であると定義している。​

 『論語』は麻薬である。危険な本である。                      
 麻薬は、その危険性を熟知している専門家が適切に使えば、医療薬になる。だが危険性を知らぬしろうとが扱うと、依存症や中毒を引き起こす。(5頁) 

 同書は、論語の持つ「魔力」を余すところなく叙述している。
 私が一番関心を持ったのは、同書の第4章で、日本人がいかに『論語』を受容してきたか、と云う内容だ。当初、日本人は『論語』を表面上は受容しながらも、内心は『論語』の思想に反発を抱いていた、と云う事実は意外であった。
 加藤氏は、『論語』を読むことの本質を相撲のぶつかり稽古で、先輩力士が後輩を相手にする「胸を貸す」になぞらえている。

 著者が思うに、『論語』は町道場のような書物だ。過去、累計で何十億人という人々がこの書物を読み、格闘し、知的な汗を流してきた。(241頁)

 そして、「論語に胸を貸してもらった」とも云えるのが、安冨歩『生きるための論語』だ。

 私は以前、安冨氏の『生きるための経済学』を読んで以来、とりつかれたように、安富氏の著作を読むようになった。​

 『生きる技法』『ジャパン・イズ・バック』、『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである』『誰が星の王子さまを殺したのか』
 どれも大変刺激的な著作で、「知性」とか「教養」と云うような上品な言葉では片付けられないエネルギーがあり、読者である私に、生き方の転換を促した。
 『生きるための論語』は、私にとって、6冊目になる著作だ。
 安冨氏が「超訳」で有名な出版社から『論語』を上梓しているのは知っていた。しかし、だからこそ、ある種の胡散臭さをを感じており、安富氏の『論語』解釈の信憑性を疑っていた。
 だが、安冨氏の著作では、『論語』の言葉が繰り返し引用・参照され、Youtubeで『論語』を講義したチャンネルまで開設しているほどである。
 安冨氏の思想の根底に、『論語』があるのは間違いのない事実である。だから、私は同書を手に取った。


 同書の序文は、北京大学歴史学系教授の橋本秀美氏がしるしている。
 橋本氏は、我々現代人が「古典」と聞いた時に、ある種の「つまらなさ」を感じるのは、近代の学問が「客観主義」を標榜する余り、「解釈の循環」を止めてしまったことにある、と述べている。
 近代以前の学問において、「古典」の解釈は、神学や経学と云った体系的な理論と結びついていた、と指摘している。「古典」の本文を読み込み、解釈することは、神学や経学の理論の発展に寄与していたことになる。
 つまり、キリスト教で神について考えようとすれば、『聖書』を読み、その言葉を解釈した上で、現実の信仰生活に活かしたように、儒教でも、『論語』に収録されている孔子やその弟子たちの言葉を読み込んだ上で、現実の政治を運営したり、日常生活を送っていたことになる。
 もちろん、神学も経学も前近代においては社会や個人の人生の根底を支える学問であり、理論であったのは云うまでもない。つまり、「古典」の本文を読み、その意味を考えることは、「社会」や「生き方」を考えることと結びついていたことになる。
 それが近代になると、神学や経学は否定され、代わりに実証主義的な歴史学に基づいて「古典」は読まれるようになる。
 しかし、「古典」の本文を理解するには、歴史学でも神学や経学と同様に、本文を解釈しなくてはならない。

 本来、学問が成り立っている構造から考えれば、歴史学も神学・経学同様の内容理論体系であり、その思想内容が、宗教的・政治的傾向性を避け、客観的であることを指向しているということがそのまま、古典解釈学の客観性を保証することにはならない。(9頁)

 私は大学で歴史学を専攻していたので、上記の指摘は耳が痛い。事実を明らかにすることは容易だが、問題はその事実を明らかにした後で、どのような意味付けをするのか、だ。

 これを現代の話に直せば、こうなる。

 Aと云う政治家が妻子がある身で、不倫をしていた。
 Aは有力政治家で、政府中枢におり、実際の政策決定にも関与していた。
 歴史学的に、Aと云う人物についての事実を知ろうと思えば、不倫していたことだけを調べることが可能だ。
 例えば、どこのホテルで不倫相手と会っていたのか。何年何月に2人は知り合ったのか。合計何回、密会したのか。連絡は電話だったのか、メールだったのか、それともメモだったのか。Aと妻との関係はどうだったのか。 
 調べていけば、Aの不倫がどのように行われていたのかを知ることが可能だ。問題は、そんな「事実」を知ったところで、大多数の人間にとってどうでもよいことである。せいぜい、役に立つと云えば、スキャンダラスな記事を飯の種にしている記者や記事を話しのネタにする読者たちだけだ。
 むしろ、大多数の人にとって重要なのは、Aと云う政治家がどのような仕事を行ったのか、だ。あるいは、政府の政策決定でどこまで影響を与えていたのか。その政策が国民生活にどれほどの影響を与えたのか。
 当然、Aと云う人物の人間性を調べなくてはいけないが、「不倫をしていた」と云うのは微細な事実に過ぎない。

 もちろん、上記の例えはかなり極端だが、「Aと云う政治家の不倫」を「有名な歴史上の人物の新発見の史料」や「歴史上のある事件は、Aと云う研究書にこう書いてあるが、Bと云う研究書にはこう書いてある」に置き換えてみて欲しい。あまり云っていることが変わらない。
 いずれも事実を明らかにした上で、その意味を語っていない。
 残念ながら、私の体験の範囲内でも「事実」を明らかにした後の「意味」を語らないで、論文を仕上げようとしている人たちがいた。しかもかなり勉強ができる人で、だ。就活もあるからやむ終えないし、上記のような形で論文を仕上げても、歴史学上の問題はないし、早く仕上がる。
 とは云え、私自身も「意味」をどこまで自分の論文で追求できたのか、心もとないのであるが。

 では、安冨氏は『論語』をいかに解釈したのか。私は頁をめくってみた。

 第1章では『論語』の冒頭の文章である「学而時習之」を取り上げている。
 安冨氏は、この文章を次のように解釈する。

 先生が言われた。何かを学び、それがある時、自分自身のものになる。よろこばしいことではないか。それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。そのよろこびを知らない人を見ても、心を波立たせないでいる。それこそ君子ではなか。(25頁)

 私が意外に思ったのは、「学」の意味が「書物の学問」のことではなく、もっと広い意味の言葉として解釈されていることだ。
 それは「学」だけでは「学んだこと」にならず、「習」と結びつくことで、はじめて身につく、一種の回路を示すことだと云う。
 有名な「朋が遠方から来る」も、私は「学友」や「知り合い」と漠然に思っていたが、「学」と「習」のプロセスに照らし合わせると、「学んで身についたことが、まるで昔からの友人のようにやって来ることはよろこばしい」と云う詩のような表現だと云う。
 安冨氏は、この「学而時習之」と云う一文から「学習に基づいた社会秩序」を引き出している。もっとも、その思想は孔子のオリジナルではなく、人類にとって普遍的な思想ではないか、とも述べている。
 だが、私たちは『論語』をそのような書物として読まないのはなぜだろうか?

しかし往々にして人類は、学習過程を停止する誘惑に駆られ、常にそれを忘却する。そして学習過程の停止こそが「模範」であり、この作動は「逸脱」である、という邪説を広めようとしてきた。
 そのために「学習」の思想は、発見されては忘れられ、再発見されて忘れられ、という過程を繰り返してきた。論語の思想にしても、ここ二千年くらいは、むしろ学習を停止させる方向で読まれてきた。しかし、それでも古典というものは、いつも生命を回復させる。論語は、繰り返し、新しい生命を吹き込んで、思想を蘇らせてきた。(28ー29頁)

 安冨氏は本書で、「論語の思想」を蘇らせようとしている。
 「知」「君子」「礼」「名」「孝」「仁」など日本語になっている言葉を改めて解釈し直している。そのどれもが、一般に流布されている内容とは180度意味が異なっている。
 一体、なぜこのような事態が生じたのか?
 安冨氏は、本書の最終章で、孔子が述べていた「学習に基づいた社会秩序」が曲解された理由を「魂の植民地化」に求めている。


 「魂の植民地化」とは何か?


 安冨氏は次のように定義している。

 [定義1]魂の植民地化とは、自らではなく、他人の地平を生きるようになることである。(195頁)

 安冨氏は具体例として自らの幼少期の体験を述べている。

私は、幼児期から記憶の大半を、自らの視線ではなく、自らを斜め四五度から見下ろすような視線で記憶していたのである。(195頁)

 安冨氏はこの「視線」は「私の視点」ではなく、「母親の視点」であった、回想している。安冨氏氏が「私の視点」を取り戻すのは、四十代後半に離婚を決意し、反対した両親と絶縁してからだ、と述べている。
 一方で、自らの「地平」を取り戻すことを「魂の植民地化」(黒字は筆者強調)と述べている。
 「魂の植民地化」が生じるのは、人間が言語を獲得する際に必要だからである、と云う。

たとえば我々は言語を習得せねば生きていけないが、言語というものは本来的に外在的なものである。言語を習得するということは、外部のものを取り入れるばかりではなく、外的なものに自分を植民地化されることでもある。
 たとえば日本語を母語とすれば、日本語の発想が体にしみ込むのであり、それ以外の考え方をするのが難しくなる。これは外国語についても同様であり、英語を身につけると、英語の発想が染み込んできてしまう。
 このとき大切なことは、日本語と違う言語を学ぶことにより、自分がとらわれていることに、初めて気づくことが可能になる、ということである。(197頁)

 そう云えば、安冨氏は、自身のYouTubeチャンネルで「日本人はなぜ英語ができないか」と云う講義動画を挙げている。大学や語学本では触れられていない「言語を習得することの本質」が語られており、語学が苦手だった私には新鮮だった。

 では、「脱植民地化」はどのようにして行えばよいのだろか。

日本語と英語を共に相対化して、そのなかで自分に必要なものを残し、いらないものを捨てる、という形で、自らの主体性を確立することができれば、それは「脱植民地化」である。たとえば自分の母語たる日本語そのものは大切にし、またそれに伴う日本語の発想も大切にしながらも、それでは行き着けないところを自覚して、自分なりに組み換え、より豊かな言語表現を獲得するのが、脱植民地化の道だということになる。(198頁) 

 安冨氏は以後、孔子が与えた影響について考察してみせる。孟子や李卓吾、梁漱溟などの中国の思想家が紹介されるのは理解できるが、数学者のノーバート・ウィーナーや経営学者のドラッカーの名前が登場するのは意外に思われるかもしれない。
 だが、安冨氏に云わせれば、『論語』の「学習に基づいた社会秩序」は国や社会、時代を超えて人々に影響を与えていると云う。それは、加藤氏が指摘したように、『論語』の胸を借りて、思索を行ったと云えるかもしれない。
 そして、本書の著者である安冨氏自身もその一人だ。本書の最後に、安冨氏は『論語』の胸を借りて、現代の日本を次のように分析してみせる。

 現代の日本社会が、企業といわず、政府といわず、大学といわず、民間組織といわず、ありとあらゆる組織において、耐え難いほどの閉塞感に苦しんでいるのはなぜか。それは制度の問題でも、仕組みの問題でも、法律の問題でも、慣習の問題でも、文化の問題でも、グローバリゼーションの問題でも、途上国の台頭でも、少子高齢化の問題でも、何でもない、と私には思えるのである。それはひとえに我々の社会が君子を欠いており、経営者が小人によって占められているからであり、「和」が失われて「同」と「盗」とに覆いつくされているからではないだろうか。(253頁)


最近、熱いですね。