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今年の参議院選挙を前に、伊藤比呂美『新訳 説経節』を読んで、復讐と祈りと助けてくれる存在について考えた

 今年の夏は参議院選挙がある。今月の22日に公示され、来月の10日に開票される。同選挙が終了すると、衆議院を解散しないかぎり、3年間、選挙がないと云う。
 前回の衆議院選挙で自民公明が勝利し、憲法改正に好意的な維新が議席を伸ばした。もし、このまま参議院選挙でも自民公明、維新が勝利すると憲法改正に必要な議席過半数を獲得する予測が出ている。野党の国民民主党も憲法改正に意欲があるのではないかと云う見方が出ている。
 リベラル陣営では、焦りの声が出ているものの、肝心の野党第一党の立憲民主党の存在感は薄い。先月、福山哲郎前幹事長が街頭で殴打される事件が発生している。ロシアによるウクライナ侵略により、原油の値段が高騰し、食料などの値段も上昇しているが、円安が進んでいる。日本はほとんど輸出品でまかなっている国なので、円の価値が下がれば入ってくる商品の量も減る。
 そんな状況で国の舵取りをしている岸田文雄首相の存在感も薄い。何がしたいのか、よくわからない。しかし、支持率は高い。それもよくわからない。社会が動揺する中で、事件は多発し、何がなんだかわからない状況が続いている。日々のニュースをみてもどうすれば良いのか、さっぱりわからない。ツイッターをながめていても、膨大な量の意見が飛び交い、やっぱりわからない。

 そこで、現代の状況から身を引くために、説経節を読むことにした。説経節とは、中世日本の民衆芸能で、仏の前世である人間を主人公にしている語り物だ。武士の文化となった能や狂言とは異なり、あくまで民衆の文化として受容され続け、縁起や因果と云った仏教的な思想を説いている。森鴎外の小説『山椒大夫』はもともと説経節の演目だった。

 以前から日本人の思考の根底にあるのは何だろうかと考えたとき、民衆に広く受容されていた説経節の名前を聞いたが、なかなか調べる機会が少なかった。いくら民衆に親しまれたものとは云え、言葉は中世の日本語だ。Youtubeでは説経節を収録した動画が投稿されているが、言葉はやはり古い。節と付いているので、音楽的なリズムに乗って語られているのがわかるが、慣れないと内容が入ってこない。原文も読む気にはなれないと思っていたところ、現代語訳があることがわかった。

 詩人の伊藤比呂美氏の『新訳 説経節』だ。説経節を現代語に翻訳したもので、これなら私でも読めると思った。収録されているのは、「小栗判官」「しんとく丸」「山椒太夫」の三作。

 以下、私なりの感想をしるす。



判を押したような復讐


 説経節は、中世の日本で語られていたので言葉は現代人には難しい。しかし、云いたいことはものすごくはっきりしている。
 私は説経節の主要なテーマは復讐だとわかった。仏教の話なのに、どうして復讐なのかと疑問に思う読者もいるかもしれないが、伊藤さんの本に収録されている話はすべて主人公が自分を虐めた相手に報復している。しかも、だいたい斬首だ。

 どうして、そうなってしまうのか。

 それは説経節では主人公が必ず苦しむからだ。どうして苦しむのかと云えば、苦しめる原因を作った人がいることになる。「小栗判官」では主人公の小栗は恋人の一族に毒殺される。「しんとく丸」は父親の再婚相手に家督相続が原因で呪われたことで病気になり、家を追い出され、物乞いに落ちぶれる。「山椒太夫」の厨子王丸は人売りに騙され、強制労働を強いられる。
 物語の主人公は、金持ちや大名の子息と云うことになっているが、伊藤氏が指摘しているように明らかに最下層の人間だ。読んでみるとわかるが、物語の中に、上流階級の生活の具体的な様子や和歌や漢籍の素養がまったくみられない。逆に、主人公が落ちぶれていく様子を描くのは、リアルだ。
 例えば、「山椒太夫」では旅先の宿の主人が主人公の厨子王丸と姉の安寿、母親と乳母のうわたきを騙し、舟に乗せて売り飛ばしてしまう。
そのとき、本人たちに気づかれないように舟上で隠語を使いながら取引をしている。


 沖をじっと眺めれば、霞の中に、舟が二艘、見えました。
 「そこの舟、商い舟か、漁の舟か」と太夫が問いますと、一艘は「蝦夷の二郎の舟」と答え、一艘は「宮崎の三郎の舟」と答えました。
 「おまえの舟はどこの舟だ」と向こうも問いまして、「山岡の太夫の舟」と答えました。
 「めずらしいな、商い物はあるのか」と聞きますので、山岡太夫が「これだけある」と片手を差し上げて、親指を一つ折ったのは、四人あるとの合図でありました。
 「四人あるなら五貫で買おう」と二郎が早速値をつけました。
 「そっちが五貫なら、おれは前々からの取引だ。一貫あげて六貫で買おう」と三郎が言いました。
 おれが買う、いやおれだと口論になりましたので、太夫は向こうの舟に飛び移り、
「音を立てるな、鳥が立つ。こっちは若鳥だ。末に繁盛するように、両方に分けてやる。まず、蝦夷の二郎どのは、奥方二人を買ってゆけ。宮崎の三郎どのは、姉弟二人買ってゆけ。五貫に負けよう」(161−162頁)


 説経節自体、もともと一人の作家が書いた脚本ではなく、漂白の芸人たちが寺の門前や街頭などでササラなどを鳴らしながら、語り伝えたものなので、不特定多数の人間の手が加わっている。
 だが内容を読めば、当時の下層階級の人たちがどう云う生活をしていたのかがわかる。もちろん、身分のある貴族や武士が人身売買されるはずがなく、語り手たちは人買いの現場をみたことがあり、具体的にどう云う風に取引されるのかを知っていたことがわかる。そうでなければ、ここまで具体的な描写は出てこない。人間は具体的に経験したり、見たことがないことになると、言語表現が抽象的だったり、曖昧になるものだ。
 それは日本の青少年向けのライトノベルではよくキリスト教をモデルにしたような教会や聖職者が登場するが、具体的な描写が乏しいのに似ている。教会のはずなのに、現実のキリスト教の教会の主要な行事である礼拝の描写がなかったり、聖職者が一般信徒を信仰面で指導する牧会の様子が皆無だったりする。理由は簡単で、日本人の大半がキリスト教徒ではないため、信者が具体的にどう云う生活をしているのか、作者も大半の読者も実感がわかないからだ。
 逆に、学園生活やそこでの人間関係の描写はリアルだ。理由は、ほとんどの日本人は10代の後半まで学校で時間を過ごしているからだ。学校での生活やクラスや部活などの人間関係は具体的な体験に基づいているので、作者が作品に落とし込んで語れるわけだ。それは学校を舞台にしていない作品でも学校の延長線にあるような世界だったりする。だからこそ、青少年向けに書かれたライトノベルは読まれ続けていると云える。
 中世の日本も同様で、言葉の上ではいくら高貴な人たちを主人公にしていても、語り手が下層階級の人間では物語の中で具体的なことは何も云えない。上流階級の文化や生活を経験していないからだ。逆に、下層階級の世界は非常に具体的に語れると云うわけだ。
 

 また、説経節を読むと、当時の下層階級の人間がどのように扱われていたのかがわかる。
 宿の主人に騙された厨子王丸は姉と共に、売り飛ばされ続け、各地を転々とした後、現在の京都北部の由良海岸の山椒太夫に買われてしまう。太夫は姉弟に潮汲みや柴刈りをやらせる。姉弟を気の毒に思った地元の人たちは、二人を助ける。それを知った太夫の三人目の息子の三郎は、父親に告げ口し、お触れを出す。もし、姉弟を助けたら、隣三軒と両向かいまで罪に問う。
 お触れのせいで厨子王丸は地元の人たちに助けてもらえず、上手く柴を刈れなかったので、我が身を悲しみ自殺しようとする。しかし、一人で自殺しては姉を残してしまうので、一緒に海へ投身自殺しようとする。そのとき、同じく太夫に買われた伊勢の小萩が二人を止める。そのとき、彼女が語った言葉は生々しい。

 「待って、二人とも。死んじゃだめよ。死ぬ気になったら、生きられるはず。生きてさえいれば、いいことがあるはず。また世に出ることだってある。命をむだにしないって約束してくれるなら、あたしの話をしてあげる。あたしだって、代々太夫に使われてきた下人なんかじゃないのよ。国をいうなら大和の国、宇陀の者なの。継母のたくらみで、伊勢の国の二見が浦から売られたの。あんまり辛くて、杖に刻みをつけて数えてみたら、ここに来るまでに四十二回売られてきたの。ここに来て、今年で三年になるけれど、初めから慣れるものじゃない、でもいつかは慣れる。柴が刈れないなら、あたしが刈ってあげる。潮が汲めないなら、あたしが汲んであげる。だから、命を捨てちゃだめ。(173頁)


 伊勢の小萩の言葉を受けて、厨子王丸と姉は自殺を思いとどまり、彼女を姉とみなし、姉妹・姉弟の契りを結び、生きることを決意する。おそらく、厨子王丸と姉の安寿の境遇と伊勢の小萩の言葉から「下人」「人買い」「柴刈り」「潮汲み」などの時代を感じさせる単語を抜いて、「会社」「学校」「職場」「人間関係」に置き換えれば、現代の日本人でも理解できるのではないだろうか。あるいは、山椒太夫や三郎の陰湿な嫌がらせを職場上司によるパワハラ・モラハラや学校でのいじめに置き換えると、すんなり理解できるのではないだろうか。その上で、伊勢の小萩の言葉を聞くと、数百年前の名もなき人たちが語り伝えた物語の中の人物の言葉であるにも関わらず、妙な親近感が湧くのではないだろうか。
 よく日本人の書く物語は、主体的な個人が描かれないと云う批判が根強く存在する。あるいは、世界と個人の葛藤や社会を風刺したスケールの大きな作品が少なく、普遍性の乏しい狭いローカルな人間関係を描いた作品ばかりだと云う指摘も多い。私も学生時代はそのように考え、日本人の書く物語を避ける傾向があった。

 しかし、ヨーロッパやアメリカで主体的な個人が物語の主題になるのは、どう考えてもキリスト教を背景にした文化が存在するからだ。神の似姿である人間はどう生きるべきなのか、と云う問いを意識していないと主体的な個人を題材にした物語はなかなか想像がつかない。あるいは世界と個人の葛藤や社会風刺を題材にした作品が多いのも、ヨブ記や預言書と云った聖書の物語の影響を無視することはできない。どうして世の中に理不尽なことが起きているのか、不正が横行しているのは一体なぜなのだ、と云う問いは裏を返せば、全知全能の神が作ったこの世界でどうして悪が行われているのか、と云う疑問と重なる。もちろん、SF作品などではわかりやすいかたちで神が出てくることはないし、ほとんどの作家はキリスト教の信仰を擁護するために作品が書かれているわけではない。
 だが、西洋起源のありとあらゆる物語の構造がキリスト教や聖書の影響下にあることは疑いようのない事実だ。なぜなら、作家が育った西洋社会は千年以上その文化で生きてきたからで、人間の思考がそう簡単に変わることはない。

 それと同様に、日本人の発想も大枠では変化がないのではないか、と説経節を読んで思った。

 「山椒太夫」では、その後、厨子王丸と安寿は山椒太夫と三郎の度重なる折檻に耐えかねて逃亡を図る。もっとも、二人とも逃亡したのでは、逃亡したのが発覚すると思い、安寿が身代わりになって残ることになった。
 だが、山椒太夫は厨子王丸が逃亡したことを見抜き、三郎は安寿を拷問にかけ、行き先を白状させようとする。だが、安寿はかたくなに口を割らなかったため、拷問にかけ続けた結果、とうとう衰弱して死亡してしまう。

 厨子王丸は途中で山椒太夫の追手に命を狙われながらも、なんとか都に到着する。実は、厨子王丸の父親は陸奥(現在の東北地方の国名)の国の殿様で、天皇に讒言する人がいたせいで、冤罪で領地を取られ流罪になり、親子離れ離れになっていた。そもそも、厨子王丸たちが旅をしたのは、京都にいる天皇に父親の冤罪を晴らすのが目的だったのだ。
 なんとか天皇にお目通りが叶った厨子王丸は、父親の冤罪を晴らすことに成功し、丹後の国の国司に任命される。国司に任命されると、早速現地に赴くが姉はすでに山椒太夫に殺されたことが判明する。そこで、厨子王丸は山椒太夫とその息子たちを呼び出す。新しく任命された国司から山椒太夫は領地を貰えると思い、厨子王丸のもとへ赴く。そこで、安寿を殺したことを悪びれることもなく語った。厨子王丸は太夫を叱責するが、気を取り直し、望みは何かを尋ねた。太夫は一族が大勢いるので、小国では足りないから大国が欲しいと答えた。
 それに対し、厨子王丸は「抜け目ない答えだ」と関心し、「黄泉の国」を取らせたかったとし、太夫を捕縛し、肩から下を地中に埋めた上で、のこぎりで首を切断させた。首を切らせたのは、安寿を拷問にかけて殺した次男の三郎だった。三郎は浜に連行し、父親と同様に肩から下を埋められた上で、のこぎりで首を切断された。もっとも、通行人に切らせたので7日かかったと云う。長男の太郎と次男の二郎が許されたのは、厨子王丸をかばってくれたからだ。
 その後、長男の太郎は出家し、安寿と太夫の菩提を弔い、次男の二郎を地頭に任命し、命を助けてくれた伊勢の小萩を姉とし、都を連れて行った。母親の行方を探し救出した上で、ことの発端をつくった人売りの山岡太夫をみつけ、むしろに包んで海中に沈めた。厨子王丸は天皇から官位をもらったので、父親の無罪を証明し、都で親子再開を果たし、帰郷して金持ちになり、めでたしめでたし、と語りは終わる。

 厨子王丸は、確かに度重なる折檻を受け、姉を殺されたが、ここまで残酷な復讐をするのか、と思う。しかし、他の「小栗判官」や「しんとく丸」でも最終的に、主人公を虐めた相手は山椒太夫と同様に血祭りに上げた上で、ハッピーエンドと云う終わり方になる。判を押したようなクライマックスのあり方は、しょせん中世の文字も読めなかった無学な貧民たちが日ごろ抱いていたルサンチマンを物語のかたちでウサを晴らしていたのに過ぎないと思うかもしれない。
 確かに、ここまで判を押したようなクライマックスなら、物語の内容としてはあまり難しくない。嫌なやつは打首になって、主人公は幸せになる。単純極まりないストーリーであるが、だからこそ多くの民衆の心を掴むことができたのだと思う。説経節はほとんど路上で語られていた聴衆たちが恵んでくれるお金で語り手たちは生計を立てていた。民衆が理解できて共感できる物語でないと、そもそも聞いてもらえなかったと云える。ある意味では非常に単純明確な事情であるが、そうなると、民衆に受容されるのはそう云う単純極まりない物語で、仏教の話も愚かな民衆でもわかるご利益のお話にするしかないのかとも思ってしまう。しょせん民衆は嫌なやつに復讐して自分は幸せになりたいだけなのか。

 だが、説経節を注意深く読むと、そう云う復讐とは別の側面が浮かび上がってくる。


祈りと助けてくれる存在

 

 先ほど、引用した「山椒太夫」では主人公の厨子王丸はさんざん虐められ、ときに命を狙われる。だが、そんな彼を救ったのは、地蔵菩薩だった。もともと母親が安寿にあずけていたお守りだったが、物語では苦境に陥る厨子王丸を何度も救う。
 また山椒太夫の追手から厨子王丸をかばったのは、お寺の住職だ。お寺の住職が厨子王丸の居場所を山椒太夫の一味から隠し通してくれたおかげで、厨子王丸は生きながらえたと云える。

 中世史の大家である網野善彦は「無縁の原理」と云う概念を用いているが、人間の縁はときに呪縛となる。網野は人間社会はいざと云うときに、くされ縁を切ることによってはじめて成り立つと云うことを述べている。この場合、山椒太夫のもとにいることは厨子王丸にとって呪縛になり、生命の危機でもある。彼は山椒太夫のもとを逃亡することで、「無縁者」となり「自由」を獲得する。
 厨子王丸が救われたのは、彼自身の努力ではなく、神仏に祈り、住職と云う助けてくれる存在がいたからだ。

 現代人が説経節の物語を読むと、あまりに俗物的な内容に肩透かしを食らう。確かに、厨子王丸はその後、京都のとある公家の養子になり、天皇から国司に任命され、山椒太夫に復讐し、故郷に帰って大金持ちになると云うのは都合が良すぎるし、宗教的な教訓よりも立身出世のために神仏を使っているに過ぎないともみえる。
 しかし、現代社会で不足しているのは、助けてくれる存在ではないだろうか。厨子王丸は無縁の世界が自分を助けてくれると理解していたから、お寺に逃げ込んだとも云える。果たして現代社会で厨子王丸のように逃げる場があるだろうか。確かに、山椒太夫のような露骨な暴力はなくなったが、生きづらさは変わらない。「山椒太夫」がかたちを変えながらも現在も残っているのは、この物語を熱心に聞いていた民衆たちと現代の私たちの心情はさほど変わっていないからではないかと思う。

 網野は「無縁」の世界は近代になるにつれて縮小して不可視化されていったと述べている。近代社会ではすべての空間が法の支配を受けるので、法が適用されない無縁の世界は存在が許されなくなるからだ。
 だが、経済学者の安冨歩氏は近代社会であっても無縁の原理は存在していると主張している。なぜなら、網野の議論に従えば、無縁の世界の力によってはじめて近代社会が成立しているからだ。もちろん、厨子王丸の生きていた時代のようにわかりやすいかたちでは存在しているわけではないが。

 さて、今月は参院選挙がある。どの政党もぱっとしない。コロナ禍が2年ぐらい続いてみんな疲れている。正直、どこに投票して良いのかわからない。私も毎日流れてくるニュースにうんざりして、情報収集するのが嫌になってきた。大事な選挙と云われても、正直、ピンとこない。私もこの政党が良いとは云い難い。どの政党も問題を抱えているし、毎日のように膨大な量のトラブルが発生しているからだ。
 しかし、説経節を読むとわかるのは、自分を助けてくれるかもしれない人に投票することだと思う。もちろん、厨子王丸のようにはいかないかもしれないが、自分を助けてくれる存在こそ生きるためには必要ではないだろうか。思想や政策も重要かもしれないが、その人が自分を助けてくれる存在なのかを考えながら、投票先を決めると見えてくるものがあるのではないか。

 なお、厨子王丸は国司に任命され、山椒太夫に復讐したあと、彼を救った伊勢の小萩と住職にお礼をしている。厨子王丸のようなことは現代社会ではできないが、自分を助けてくれる存在を見定めることこそが重要な政治的な意思決定になるのではないだろうか。


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吉成学人(よしなりがくじん)
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