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おパリな香り

コロナ禍で移動の機会は極端に減ったが、それでも多くの人に比べたら頻度は多い。
その為、都内や旅先でもほとんど決まった場所で決まった人と過ごし、移動にも気を配る日々で、気が滅入る時もあるが、そんな時にお茶と香りの存在に救われ、我ながら便利なものに目をつけたなと思うのである。

今、SNSのコミュニケーションをシンプルにし、新たにこうした形で自分の足跡を残そうと思った理由の一つに、どうも周りの人の目には自分の行動が多岐に渡っているように映り、良くも悪くも”軽やか”に見られてしまうコトに、この数年の日々の、自分の姿とのズレを感じていたコトがある。

朝、起きて茶を啜り、ほぼ自問自答と過去のアレコレに思いを馳せている。大分地味というか根暗な毎日。でも、その中に平穏と自分らしさがあると思っている。

伝統工芸や文化との親交を深めていたと思ったら、急に「お茶」に取り組み出した時も周囲から、飽き性だからなと心配された。そんな訳で、月日が経ち、少しづつ「お茶」と「工芸」が交わり始め、当初の願いが形になった時、良い意味での心配をしてくれた友人たちに、サプライズを届けられた事は清々しい思いであった。

と、そこにきてまた「香り」の取り組みが。。。
周りから届く心配の声、まったくの想定通りである。

話しは少し前の事になるが、全ての始まりはパリにある。
「日本文化を海外に」というキーワードを、職業柄か聞かない日は無い。だが、実際のところ関わる人々やその土地の人々が達成感を得られる取り組みはほとんど無いと言える。

それは何故か?
国の方針や、関わる先生たちの視野の問題など複雑に絡み合っている中で、あまり注目されていないが、全てにおいての「美意識」の欠如がそこにあるからだと思う。この話しは少し固くなってしまうので、違う機会に話すとして、その「美意識」を何よりも大切にしたプロジェクトが、パリで展開する時に声を掛けてもらった知人や恩人たちとの取り組みである。
パリに対して、全くというほど関心の無かった自分だが、プロジェクトのユニークさと、本質をきちんと外国の方々と対話したいという彼らの姿勢に惹かれて、参加させてもらった。

結果的に、この機会は自分のその後の人生を大きく変化させる出来事であった。この時の人との出会いや、文化の伝え方などが、それまでの自分の思考をチューニングしたのである。

多い時には年に8回ほど渡仏し、家を借りるまでは至らなかったが結局数年間、ギャラリーを運営するという奇跡に近い経験を得た。

空間としては広い訳では無かったが、何よりも特別だったのがその場所である。
ギャラリーを構えたジャコブ通りがあるサンジェルマン地区は、パリの中心を流れるセーヌ河の左岸に位置し、若者というよりは落ち着いたパリジャンやパリジェンヌが過ごす、芸術・文化の香り高いエリアである。

ここは、パリのカフェ文化や老舗ギャラリーも多く、フランスの文化人達が100年以上愛した地区であり、同時に香りの文化も成熟した街であった。

Aēsop、DIPTYQUE、BULYなど日本でも目や耳にするブランドの本店や、多くのブランドの重要な店舗がレトロな通りに軒を連ねている。

その中の一つ、数年前に東京・代官山に日本店をオープンさせ、今では洒落た香りと言えばその名が挙がるブランドのオーナーとは、店舗立ち上げの前に街のカフェで香りのことや日本の文化について幾度も意見を交換したこともあり、今の繁栄を心から嬉しく思う。パリで生まれた美意識を日本にも更に浸透して貰いたいと陰ながら願う。

自身が関わるMABOROSHIやEN TEA、GEN GEN AN幻のアートディレクターを勤めてくれているフランス人の盟友ともこの期間に交流を深めた。
そして、彼から紹介を受けた一人であり、香りの未来を創造する稀有な調香師との縁が、MABOROSHIの世界観を生み出すには不可欠だった。

ひょんな事から、パリとの関係が生まれ、更に滞在したエリアが知的・文化活動の一大中心地であり、世界の香りの指針を生み出していた事。そして、ここで体験した香りへの考えや、そこに関わるプロフェッショナルたちとの交流が、MABOROSHIの誕生に大きく影響している。

さて、少し過去に遡り、香りの概念を得たパリとの出会いについて触れたが、次は「茶香炉」を通して、何故、茶や工芸の先に香りを据えたのかについて緩やかに触れたいと思う。

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