![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/74451817/rectangle_large_type_2_37f99c703da5256824a43fc9de166106.jpg?width=1200)
拝啓 Myヒーロー。
最近気になる職業というか、生き方がある。
それは「指揮者」である。
その存在はなんというか、一つの ”象徴” だと感じる。人と人とが結びつき、非言語の中で生み出す時間、その中心にいる指揮者。
音楽の知識は全くなく、もっぱら楽しく聴かせてもらう専門だが、この指揮者という存在は、モノやコトが生まれるそのプロセスに共通する要素を、大変シンプルに、しかも、直接的な体験として認識させてくれる。
モノやコトが生まれるまでには、色々なプロセスがある。何百年も変わらないこともあれば、秒単位で変わる方法論もある。自分も茶や香を生み出す時や、職人との掛け合いでも、いつもこの選択との格闘を繰り返している。
何を残し、何を活かすか。
人類の歴史の中にその作品を残した作曲家は、自分からすれば、一つの宇宙を作ったくらいの偉業というか、奇跡の産物に映る。
今でも名作を耳にすると、現代を生きる私たちに、過去の偉人が生み出したその宇宙へと、まるで「どこでもドア」を開けるように旅をさせてくれる。
例えば、あるお気に入りのクラシック曲がある。去年くらいから便利な現代の力を借りて、その曲を演奏した指揮者別でプレイリストを楽しんでいる。
そこで気付いたのは、同じ曲でありながらも、指揮者によって一つ一つの世界観が異なるということだ。当たり前のことではあるが、表面的な違いでは無く同じ物語でも、演奏家や音響設備が違うことで、最後の瞬間に訪れる感情も、それぞれ異なってくる。
ワクワク感、緊張感、過去への追憶などなどが本当に面白い。さらに興味深いのは、余韻の中で最後に残る感情が、全て同じ静けさで、まるで作曲者の思いへの敬意にすら感じる。
名指揮者と呼ばれる人々は、過去に生まれた宝の持つ魅力を読み取り、そこに、自分の創造性を加える。数十人の生身の人間が奏でる異なる音色から、その日の各々の状態をも察知しながら、ライブで完成させる。
言葉にすることも難解だが、指揮者のそれはもっと複雑で、変動的な事は容易に想像がつく。
この歳になってようやく、クラシック音楽やオーケストラ、指揮者という存在の素晴らしさと、偉大さを”つまみ食い”している。
この上質な間食は、自分が関わるお茶や香りにとっても、決して人ごとでは無い。
素晴らしい表現者やジャンルは多くあるが、この指揮者という存在は、人類の歴史の中でもとてつもなく完成度の高い表現であることは、間違いないだろう。
本質をどう捉えるか? そこに、自分の思いをどう乗せるか? そして、どう伝えるか? 自分も言葉に依存しているが、彼らの行為をみていると、そこには言葉を超える一体的コミュニケーションが存在しているのだ。凄まじい高密度なコミュニケーションの一瞬一瞬を重ね上げ、立体的にしていく様に、人の持つ本来の力が伝わってくる。
それに比べ、自分は ”街の音楽団” ではあるが、重なる事が多い。
距離感もある仲間たちとの取り組みだが、そこは柔軟という軟派精神で乗り越えつつ、素晴らしい ”奏者たち” と、これからの混沌とする時代を共に、お茶と香りを通して表現をして行きたい。
クラシック音楽や指揮者は、これからも静けさと多くの学びを、自分にもたらしてくれるだろう。
大人になってからのヒーロー。いつか彼らと語らう機会があれば、お茶でも啜りながら「演奏中、その背中で何を感じているのか?」を問いてみたい。