襟裳岬からZOOM画面へ
【演歌が敵だった頃】
僕が中学の頃。1980年あたりはヒットチャートに演歌が入っていた。
アイドルの全盛期でもあり、矢沢永吉やチェッカーズなどのロック系、ポップス系、ユーミンなどのニューミュージック系に加え「YMO」などのテクノ系まで現れ始めた時期だった。
そんな新しい音楽が大発生している中に「八代亜紀」や「山本ジョージ」なんかも普通にいるのだから豊かな時代だと思う。
当時の若者にとって「演歌」は古いものの象徴であり、そんなものを聴く人間は「昔の人間」と言われていた。
演歌は「恥ずかしい実家」であり「地元のみっともないおじさん」みたいな存在にされていた。
それは同時に狭い社会からの同調圧力に対する嫌悪感もあったと思う。
【アメリカ人になる?】
ところが年を重ねるにつれ「演歌が染みてきた」なんて言い出すヤツが現れる。
戦後の日本人はとにかく「欧米コンプレックス」が強く、彼らに近づくことが「素敵な事」だと思い込んできた。
ニューヨーカーに憧れ、パリジェンヌのマネをした。
それでも心の中には「実家」がある。
演歌や民謡なんかを聴くと「どうしようもなく日本人」である自分の中の「何か」が震える。
「アメリカ人になろうとする自分」に疑問が生まれる。
「アメリカもいいけど日本を否定する必要はないだろう」なんて思えてくる。
そういえば矢野顕子さんなどは「日本」を核にしたままジャズや欧米のポップスと混ざった新しい日本の曲を作っている。
そんなこんなで「日本も欧米も良いところはある」と、ミックスは加速していく。
80年代になると「中国もいいよね」となってYMOなどの先端カルチャーからドラゴンボールまで進んでいく。
【ご当地ソング】
ご当地ソングの名曲が多く生まれたのは70年代前後の「欧米人になりたい」「日本文化はダサい」という時期だったと思う。
寅さんシリーズの後期は欧米化(近代化)していく若者に嘆く寅さんが描かれている。
ご当地ソングの多くが「別れの歌」だ。
僕は日本人はこの時期に「それまでの日本」と別れたのだと思う。
ふるさとを離れて東京に向かう人達が向かった東京は「江戸」ではなく「アメリカと悪魔合体した奇妙な街」だった。
なので「東京は砂漠」であり「コンクリートジャングル」で「幽霊」なのだ。
あの日のふるさとは過疎化して「老いた両親の住む実家」になっていった。
70年代のふるさと(ご当地ソング)には生き生きとした地方の歌も多いのだけれど、80年代以降「ふるさと」は思い出の中に霞んでいき、やがて「ふるさと」は消えていく。
歌の中の「ふるさと」は「風街ろまん」では「心の中の街」になり、バンプオブチキンでは「宇宙」になる。
【パソコンの中のふるさと】
ヤンサンを長く観てくれている人なら覚えていると思うけど。
昔ドレスコーズの志磨遼平が「僕のふるさとはレコードや映画なんかのコンテンツなので全部パソコンの中にある」と言っていた。
それに対しておっくんは「俺のふるさとは山や川や海がある現実の場所だ」と言っていた。
おっくんから遼平への変化が、この十数年に起きた変化の本質でもあると思う。
でも僕はそんな話をしている「この場所」が「ふるさと」だと思う。
それは時に埼玉のファミレスであったり、スマホの画面でもある。
漫画アカデミー(学校)のZOOM画面もヤンサンのスタジオもふるさとだ。
死ぬ前に「ああ・・色々あって面白かったな」と思い出す「その時の場所」が「ふるさと」なのだろう。
そう考えると「地球全部がふるさとだ」って話にもなりそうだ。
【サマーオブソウル】
ラジオでユーミンが絶賛していたライブ映画「サマーオブソウル」を観た。
1969年伝説のフェス「ウッドストック」があった年に、黒人ミュージシャンが集結してニューヨークのハーレムで巨大フェスがあった。
その存在は今まで伝えられなかったのだけど、今回その映像が映画として公開されたのだ。
黒人の人達の音楽は「彼らの悲しみや喜び」を歌っているのかもしれないのだけど、日本人の僕にも響く。
それはどこか「演歌」や「民謡」とも通じる。
人間は深い所で「ふるさと」を共有している。
アメリカが偉いとか、田舎がダサいとか、そういうのを超えて「同じ」なのだろう。
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