見出し画像

<知らない人>


*この記事は「脱サラをする前に」というサイトから転載したものです。

今から5年前に起きた「池袋暴走事故」の被告・飯塚幸三受刑者が老衰のために亡くなりました。この事故では飯塚受刑者が元高級官僚だったことから、様々な批判が沸き起こり「上級国民」という言葉まで生まれました。前にも書きましたが、僕は飯塚受刑者に対して、「高級官僚」という言葉から感じる傲慢さというよりは「善良な人」という印象を持っています。ですので、人生の最後を刑務所で終えたのは無念だったろうと思います。

しかし、交通事故とはいえ、人を殺したのですからその罪は大きなものがあります。言うまでもありませんが、飯塚受刑者の無念さに比べますと、被害者の母子や遺族である夫の悔しさのほうが数倍も大きいに決まっています。そうした加害者・被害者の両方のことを思いますと、交通事故がいかに多くの人を傷つけるかを思わずにはいられません。僕も含めて車を運転する人は、一つ間違えると「車は凶器」という言葉を肝に銘じてハンドルを握る必要があります。

先週は、交通事故に関連して印象に残るニュースがあと一つありました。3年前に大分市で起きた死亡事故ですが、「危険運転」にあたるか否か、が裁判の争点でした。同じ罪でも「過失運転致死罪」と「危険運転致死罪」では罰則の大きさが違うらしいのですが、走行時の190キロというスピードが焦点になっていました。

一般の人が常識的に考えるなら、プロのドライバーでない人が一般道を190キロで走行した場合、「普通に走れる」とは思いません。ですので「危険」です。しかし、司法の世界ではそうとはならないようで、「危険運転」ではなく「過失運転」と判断されるようでした。それに納得できなかった遺族が署名活動をしたことで起訴内容が「過失運転」から「危険運転」へと変わり、判決でもそれが認められました。

こうした事例を見ていますと、司法と現実社会との感覚のズレを思わずにはいられません。そのズレに関して思いをめぐらしていたときに、先日無罪が確定した袴田事件に関するニュースが目に留まりました。ようやっと袴田事件は無罪が確定したのですが、その際に検察官の最高位である検事総長に就いている畝本直美氏が談話を発表しています。その談話を読みますと、「謝罪をしているようでいて、本心ではそう思っていない」という印象を受けました。僕はそこに最高検察庁のプライドみたいなものを感じたのですが、それこそ上級階級の人たちですから仕方ないとも思っていました。

それから数日後、検事総長の談話に合わせるかのように県警の本部長が袴田さん宅を訪問して謝罪していました。それこそわざわざカメラを入れてニュースで流せるように配慮していたのが印象的でしたが、警察の真摯な対応には好感を憶えました。これで一応、検察は談話を発表し、警察は直接謝罪しましたので、区切りをつけようとしているように見えました。

ところが、先週水曜日に静岡地検の検事正が袴田宅を訪問し、対面で謝罪をしていました。その際、マスコミの取材にも応じ「袴田さんを犯人視することもない」と語っています。僕のように「本心では犯人と思っている」と感じた人が多かったのかもしれません。そうした人に対応するための謝罪訪問だったように思います。僕は「検察の良心」と感じたのですが、ほめ過ぎでしょうか。

検事正の謝罪は、一般社会との感覚のズレを修正しようとする行動に見えます。時代の移り変わりにつれて、天秤が傾いたなら水平にするのは当然です。前の朝ドラ「虎に翼」ではありませんが、法律は現実の社会に合わせて変える必要性を感じます。そのようなことを思っていましたら、「トランプ大統領の当選」が頭に浮かんできました。先の大統領選で、トランプ氏は「人工妊娠中絶は違法」と掲げていました。そのトランプ氏が当選したということは、米国民が女性の「中絶の権利」を放棄する決断をしたことになります。

以前、映画評論家の町山さんが話していましたが、米国では1960年代まで「人工妊娠中絶は違法」だったそうで、それを女性たちの努力により1973年に「合法」を勝ち取った歴史があります。そうした努力がトランプ氏の当選により、水の泡となりそうなのですが、こうした流れは僕からしますと「後退」と映ります。しかし、米国民は「時代に合わせた」と考えているのかもしれません。もちろん「人工妊娠中絶」だけが投票の争点ではないと思いますが、「違法」となることを選択したことには間違いありません。今後、米国の女性はどうなるのでしょう。

米国の話はひとまず置いておくとして、日本では法律が少しずつ現実に沿うようになっていくことはとてもよいことです。大分の交通事故で法の判断が変わったのは遺族の方々の強い思いがきっかけです。こうした事例を見て僕が思い出すのは、1990年に起きた「光市母子殺害事件」です。この事件は18歳の少年が23歳の母親と生後11か月の赤ちゃんを殺害したむごい事件だったのですが、この事件が注目を集めたのは、遺族である夫の本村洋さんが裁判の傍聴に奥様の遺影を持ち込めなかったことです。

当時、マスコミが大きく報じていたのですが、遺族である本村さんは裁判に遺影を持ち込めないことに対して、涙ながらに「私は知らない人のために涙は流さない」と訴えていました。僕はニュースで見たこのときの映像を今でも思い出すことができます。それほど僕にとって衝撃的な訴えでした。

本村さんはその後「全国犯罪被害者の会」などの活動をするのですが、裁判に被害者が参加できるようになったのも本村さんが大きく貢献しています。実はこれまで僕は、被害者が裁判に参加する制度にあまり賛成ではありませんでした。なぜなら、「裁判は公平であるべき」と思っているからです。被害者が裁判に参加してしまいますと、どうしても感情が入ってしまいます。それでは公平な裁判にならない、と考えていました。

しかし、大分の交通事故を「過失運転」から「危険運転」へと変えさせたのは「被害者の強い思い」です。法律での「過失」という判断に納得できなかったことです。法律と言いますか、検察の感覚が正しいとは限りません。一般社会で生活している被害者の感覚のほうが正しいことを証明したことになります。今回の一件を見て、僕は被害者が裁判に参加する意味を感じました。検察の感覚を補正する点において、被害者が裁判に参加する意味があるように思いました。

僕は、世界のどこかで戦争や紛争などで苦しんでいる人や独裁国家で苦しんでいる人がいることに強い憤りを感じています。サザンオールスターズの桑田さんも同じような感性を持っているようで、「真夜中のダンディ」という歌の歌詞で♪隣の空は灰色なのに、幸せならば顔をそむけてる♪と歌っています。名曲です。

数か月前にナチスの幹部の生活を描いた「関心領域」という映画について書きました。これはアウシュビッツ強制収容所の隣で暮らしているナチスの所長一家の生活を描いた作品です。ユダヤ人が息も絶え絶えに生きている隣で、ごく普通に楽しく暮らしているナチス一家を対比しています。人間は関心を持っている領域が違うだけで、いかようにも性格を変えることができることを示しています。

僕は常々、世の中の人全員が「他人の苦しみや悲しみを“他人事”ではなく“自分事”と捉えるなら、世の中から“いじめ”や“戦争”がなくなる」と思っています。問題は「自分事」と思う範囲です。神さまであったなら、地球上全体を俯瞰できるでしょうが、僕は平凡な人間です。世の中のすべてを範囲にしてしまいまうと、自分が苦しくなって楽しい人生をおくれくなくなってしまいます。

悩んでいた僕に答えをくれたのが「私は知らない人のために涙は流さない」という言葉でした。この言葉は普通に平凡に生きている庶民の指針となる言葉です。知らない人に親身に接したり考えたりすることは普通の庶民には不可能です。そもそも知らない人全員に関心を持っていたなら苦しくて自分自身が生きていけなくなります。普通の庶民が普通に暮らしていく際の関心範囲は「知っている人」で十分です。

でも、戦争で悲しそうな顔をした少女を見ちゃうと、心が揺れるんだよなぁ。

じゃ、また。

いいなと思ったら応援しよう!