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ゲイが語る【あっち側】と【こっち側】~「おっさんずラブ」を観て~

テレビを持たない僕ですが、ドラマ「おっさんずラブ」がどうしても気になり、日曜日、Youtubeで一気に全話を視聴した。

笑いあり、涙あり。
近年まれにみる名作だったと言っても過言ではないと思う。


「どのように男性同士の恋愛を描くのか?」


今回、このドラマを視聴するにあたって、それがとても気になっていた点だった。男性同士の恋愛を単なる娯楽として消費させるような作品は絶対に観たくなかったから。男性同士の恋愛を「商品」として扱われたくなかったのだ。

しかし、それはいい意味で完全に裏切られた。僕にとってこのドラマは「完璧」だったのだ。

男性同士の恋愛に否定的な見解を唱える役柄、つまり「悪役」がこのドラマの中にはひとりもおらず、しかも「ゲイ」という単語を一度たりとも使わず、当事者たちの心の機微までをも描いてくれていた。

これほどまでに終始気持ちのいいドラマはいまだかつてなかった。こんな素晴らしい作品を世に送り出してくれた関係者の方々に、ただただありがとうと言いたい。


さて、この記事のタイトルは「ゲイが語る【あっち側】と【こっち側】」だった。

【あっち側】という言葉がドラマ内で語られていたのだ。第4話で武川(眞島秀和)が牧(林遣都)に言った(ふたりともゲイを演じていました)


「あっち側の人間を好きになっても、幸せになることは絶対にない」


ここではざっくり分けてしまうけれども、

あっち側=ストレート(異性愛者)
こっち側=ゲイ(同性愛者)

ということ。

この世界では、「あっち側」の力は圧倒的だ。圧倒的な力を持つ、「あっち側」の世界のルールで、僕は今日も生きている。


「結婚はしているの?」
「彼女はいるの?」
「孫の顔が見たいわ」


誰もが悪気をもってこれらの言葉を使っているわけではないだろう。しかし、僕にとってはこれらのどれもが暴力的な言葉にしか感じられないのだ。

「おっさんずラブ」の中でも、春田(田中圭)の母親が「早く孫の顔が見たいわ」という言葉を牧に呟く場面があった。春田と牧が付き合っていることなど知る由もなく。その後、春田が幼馴染の女性を抱き締める場面を目撃した後、牧は一旦春田に別れを切り出している。春田の母親の一言が別れの原因のひとつになったことは確実である。

ストレートでも同じく、それらの言葉を言われて嫌な気分になるひとはいるだろう。だけどそれは「こっち側」の人間が受け取るそれとは全く違う。

なぜならば、それらの言葉を発する主体には、「こっち側」の人間の存在など考慮にない。「異性」のパートナーがいること、「異性」のパートナーを持つことを前提とした会話なのだ。いちいち「僕の恋愛対象は男性なんです」と「こっち側」の人間が説明しない限り、その相手は相手をストレートだと決めつけ、それ以外の性的指向を持つかもしれない、などというところに思いを馳せることなどないのだ。永遠に。

こういう会話を僕たち「こっち側」の人間は、人生の中で延々と聞かされ続ける。1回ごとに受ける「ここには『こっち側』の存在に対する考慮などないいんだ」というダメージ。それがいくつもいくつも積み重なっていくうちに、僕の場合は元々低かった自己肯定感がさらにさらに低くなってしまった。もちろん、「そんなのいちいち気にしない」という当事者も多くいる。しかし、本当に気にしないでいられるひともいると思うのだが、ネガティブな感情を意識下に追いやり、ただ「麻痺」させているだけのひとたちも少なからずいるのではないかと思うのだ。



2年ほど前、2か月ほどハワイ島に滞在したことがあった。そこでイギリス人の女性にかけられた言葉を僕はいまでも鮮明に覚えている。


「あなた、パートナーはいるの?女性かしら?それとも男性?」


彼女は僕がストレートであると決めつけなかった。たまたま多様性を大切にするコミュニティに滞在していたからかもしれないし、僕がゲイに見えたからかもしれない。けれど、はじめて聴いたその質問に、僕は心の底から感激した。彼女のような配慮を誰もがしてくれるような世の中だったなら、この世界はどれだけ優しいものになるだろうか。

「あっち側」の春田の母親の何気ない一言に「こっち側」の牧が何を感じ、何を思い悩んだのか、そして同じような状況が世界中のあちこちで今なお、繰り返されているという現実を、このドラマを視聴した「あっち側」の方々に少しでもわかってもらえたら、うれしく思う。

正直な話、僕も「あっち側」「こっち側」なんていう括りはしたくはない。いつか、そんな括りも、そしてLGBTというワードも、この世界から消えてなくなる日が来ることを、願ってやまない。

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