賢く生きることと就学時の学習について
かなり以前に記した,メモ書を久しぶりに読み返しました。(この記事の最後のほうに載せてあります。)ブログに落としたものですが,自塾の塾生とその保護者,もっと一般に就学時の中高生とその保護者に向けて書いた記憶があります。
その後の世界情勢は,さらに混とんとして,我こそが正義であるとの偏った信念のもと,それを暴力で押しつけようという傾向が一層高まっているように感じます。
このような世界を生きていかなければならない若い世代は,より一層,この世代だからこそできる学習機会を大切にしてほしいと切に願います。ただ,現状,公教育の内容・構造が,不登校の数が最高を記録したという報道一つとっても,限界にきていることも事実でしょう。
国の喫緊の課題は,経済・外交はもちろんでしょうが,次世代を育てる教育に関しての議論であると考えます。今回の衆議院選挙では,どの政党も教育無償化等のどちらかと言えば経済的な方策を訴えているのみで,教育自体の内容・構造への言及はなかったように思います。もちろん,経済的な余裕がないことには,その他の課題への議論へは至らいないのも事実でしょう。しかし,今後の世界を担っていく世代への,特に知的な成長のための方策がもっと議論されるべきと考えます。
以下,以前記したメモ書きです。
世界を見渡せば,冷戦時代のように世界を牽引する政治や思想も力を失い,冷戦時に抑圧されていた様々な価値観が,ここぞとばかりに噴出し様々な問題を生んでいます。そんな混乱の根本には,自分と異なる考え方を排除しようとする人間心理の本質的な傾向があるように思われます。第二次大戦後,冷戦時の核戦争に対する恐怖について問われた心理学者のユングは「それは,他者が自分と対立する意見を抱くという緊張にどれくらい耐えられるかにかかっている」と答えました。世界の在り方という遠い現実でなくとも,自分と異なる考え方,意見があることを認め,それを基に自分の生き方も振り返ることは大切なことではないでしょうか。それが賢く生きることだと思います。そして,賢く生きるには就学時の「学習」が大事だと思うのです。意識さえすれば,いろいろな分野の思想・考え方を学べ,ほぼ生活のすべてを,それらを吸収するために使える貴重な時間が与えられているのです。そして,そうやって獲得した知が,その後の人生のいろいろな場面で,偏りを極力排した総合的な判断をつくるための材料になります。そう考えれば「なぜ,こんな将来に役に立たないことを強いられるのだろう」などという後ろ向きな言葉など一蹴されるでしょう。学習の目的は,将来使うか使わないかという,実利だけではなく,賢く生きるための原資になるのです。