うつのこと。6〜「頑張る」という言葉の解体〜

省エネ、むしろ疲れる

何年も前からずっと「うつ症状だいぶ寛解したな〜」と思っているのだけど、過去ツイートやnoteや日記を遡ると、数ヶ月前ですら「いやうつの特徴!!!」となるようなことがあってびっくりする。
過去の文章だと客観的に見られるからなのか、順調に回復しているからなのかわからないけど。

寛解した(と思っている)このごろ、「もう省エネで生きなくても大丈夫になったかな?」と思うようになった。
そもそも省エネモードで生きていることなどすっかり忘れ、普通に過ごしている気になっていたのだけど、何だか生活にメリハリがない。
なぜか?と振り返ったとき、「久しく全力を出していない」ということに気づき、省エネモードに切り替えたままだったからだ、と思い出したのだ。

うつで休職する前、「調子が悪くてもこなせるようにあらゆるものをルーティン化しよう」と、仕事や生活について、手順の統一、マニュアル化、効率化を進めた。
それによって、確かにしんどい時でも対応しやすくなった。
体力に乏しく、集中力を欠いていて、複雑な思考ができなくなっていても(そもそもそんな状態になったら即休養した方がいいんだけど)、身体に染み付いたルーティンから外れない範囲のことはできた。
しかし、体力の充実している時もこのルーティンの範囲内でやっていると、逆に疲れるというか、気が滅入る。
適度にルーティンを破ってどこかで出力を上げないとダレてしまう。
その上、ルーティン外のことにエネルギーを使うことに及び腰になってしまう。
何をするにも「これに必要なエネルギー量はどれくらいかな」とか、「成果が出せるほど時間がないからいいや」とか、やる前に推し量ってやめてしまうことばかりになって、「やり切ったぞ!」という清々しさを久しく味わっていない。

私はエネルギーの出力調整が下手だった。
自分の限界値がどれくらいか知らない、目の前の課題を自分のエネルギー量でやりきるにはどれくらいの時間をかけてやるべきなのかわからない、だからとりあえずエネルギーが切れるまで出力を全開にする。
やりたいことでなくても、やるべきだと思うと課題を拾ってしまうので、常にいろんな課題でいっぱいいっぱい。
全てに全力を出しては息切れし、全てが中途半端になってしまい、絶望する。
うつと共生するにあたって、自分のエネルギー量とやりたいことの必要エネルギー量を天秤にかけるようになった。
うつになりにくい人は、これが自然にできているのだろう。

「頑張る」という言葉の解体

省エネモードに移行してから、「頑張る」という言葉を避けてきた。
むしろ、頑張っちゃいけない、力を抜くことが大事、と言い聞かせてきた。
それは私が「頑張る」ことが下手だったからだ。
「頑張る」とか「全力を出す」という言葉を、私は無駄に力むことと履き違えていた。
実力以上の力を出す必要がある、そのためには身体にグッと力を入れるのだ、というイメージが染み付いていた。

私の中の「頑張る」のイメージには、母の与えた影響が大きいと思う。
子供の頃、逆上がりや自転車などできないことがあると、「なんでできないの!」「もっと頑張って!」と強く責められた印象が強く、なぜできないか、どうしたらできるようになるのかを冷静に教わった記憶がない。
「頑張って」という言葉は、「身体に力を入れろ」「できないことをやれ、とにかくやれ」というイメージとセットだった。
母自身、「頑張る」を「肩に力を入れる」「嫌なことをやる」「無理をする」ことだと思っている節があったので、ずっとそうやって生きてきたのだと思う。
「頑張る」って本当にそんな意味だろうか?

頑張るのは何のためか。それは望ましい成果を出すためだ。望ましい成果を出すために必要なのは何か。それは出力を全開にすること・・・ではない。
バスケットボールのフリースローで、肩に力を入れても全力で祈りを込めてもシュートは入らない。ボールに適切なベクトルの適切な大きさの力を伝えることで、シュートは入る。
望ましい結果を出すために必要なのは、望ましい結果に繋がるプロセスをきちんと踏むことだ。

省エネときどき頑張る

まだまだ「頑張る」のイメージを更新できていないから、「頑張る」という言葉には少し身構えてしまう。
この記事を書くことで、「頑張るって、肩に力入れなくていいんだよ」「適切なプロセス踏んでこ」と自分に言い聞かせて、新しい「頑張る」のイメージを定着させたい。
そして「頑張る」を解禁して、全力を出してみたり、「やり切ったぞ!」という清々しい疲労感を味わったりしようと思う。

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マルコメ乙女
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