遠い記憶
《桟橋にて》
とうとうこの日が来た。
お母さんとさよならする、最後の日。
お父さんとお兄ちゃんと僕でお母さんを見送る日。
海が見えてもお母さんはずっと下を向いていた。
桟橋にはお母さんを乗せる船がいた。
お母さんはしくしく泣き始めた。
色んなことを思い出して僕も悲しかった。
お父さんが何か言ったけどお母さんは答えなかった。
お母さんはお兄ちゃんの両肩を持って『◯君(僕のこと)を頼むね』と言った。
次は僕の番だけど、お母さんは僕をちょっとだけ見たら膝をついて動けなくなった。
お父さんが『船のずっぞ(出るぞ)』と言った。
もうお母さんには会えない。そう思った。
だから僕は『お母さん』と最後に呼んだ。
お母さんは小さな声で『はい』と言った。
そして・・・お母さんは船に乗っていった。
おじさんたちがロープを外す。
船内のアナウンスが何か言っていた。
船はゆっくりゆっくり桟橋を離れていく。
汽笛の悲しい音が鳴った。
お母さんは手すりで時々僕たちの顔を見たけど
ほとんどうつむいていた。
お母さんを乗せた船は僕たちの住む街を出ていく。
僕は一生懸命お母さんに手を振った。
こんなに強く手を振ったことはなかったくらいに。
お母さんはもう、僕のお母さんじゃなくなるんだって。
お父さんにそう言われた時、嘘だと思った。
でも本当なんだ。
お母さんは僕が知らないところに行くらしい。
もう会えないらしい。
だから今日はお別れの日。
今日はお兄ちゃんは泣かなかったけど、昨日お母さんと握手した時には泣いてた。僕には握手じゃなくって『ゴメンね、ゴメンね』ばかりだったお母さん。
小さくなっていく船。
もう会えないお母さんを乗せて。
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