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命あるもの

 今年はあちこちで熊が出ているから 山が好きな人は怖いだろうなぁなどと、他人事みたいに思っている。でもそれで亡くなった人も出ているみたいだから、もはや登山者どころか 山あいに住んでおられる方々にとっては笑い事じゃない。熊と聞くと若い頃盛んに読んだ畑正憲さんの本や、人気TV番組だった『ムツゴロウ動物王国』を思い出す。畑さんだったらこんな現状にどんなコメントを出すのかなぁ・・・と、こんなことを考えていると、数年前にあった ある出来事を思い出した。

 神奈川県で開催された、セーリングW杯の大会開会式で、パフォーマンスとして水族館のイルカショーを見てもらったところ、一部選手から 動物たちの自由を奪う虐待行為ではないかという不快の声が上がったという事があった。結局日本側が謝罪して事態は収拾したのだが、運営サイドは 会場に集まった多くの海外選手たちの中に その出し物を野蛮な虐待だと感じる人がいることを想定できなかった。しかしそれは予見が甘いということなのだろうか?

 ひねくれ者の私はそのニュースを聞いて、自分たちの文化や価値観こそ正しいと位置付けて、他国の文化を野蛮だと切り捨てる 欧州人の尊大な姿勢が見えて なんだか嫌な気がしたことを思い出す。突っかかるようだが、その論が正しいのならば 闘牛や競馬は良いのだろうか?五輪種目の馬術はどうなのか?また、あなたたちのお国では高尚な趣味であるハンティングなんかは、文化として今も息づいているんじゃなかったかな? なのにイルカショーだけはダメな理由が私にはわからない。

 私は長崎県の離島である五島列島の生まれであり、子供の頃からイルカには慣れ親しんでいる。イギリス人が聞くと卒倒するような話だが、わが街ではイルカを食べてきた歴史がある。立派な食文化だ。ただし積極的にイルカ漁をして食べるわけじゃなく、網にかかってしまったものや 浜に打ちあがったものだけが食用となる。タイムズにも掲載されたが、論調は残酷な食文化を今も続ける野蛮人としてだったように記憶している。失礼この上ない話だ。

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 もやいを解き、桟橋から沖に向かって舟を進めると、必ず数頭のイルカがすぐ横を追走してくる。大きな舟でも小型ボートでもそれは変わりなかった。付かず離れずスイスイと泳ぐ、そんな彼らはきっと我々の舟と遊んでいる感覚だったんだと思う。早く進めば早く、遅く進めば遅く、我々の進む速さに合わせて また時折水面を飛び跳ねながら、嬉しそうとか楽しそう、という表現がピッタリな感じでお供をしてくれたものだ。もしかしたら人と遊ぶ犬と同じような感覚を 彼らも持っているのかもしれない。

 でもそんなイルカでも、地元の漁民からはこの上なく嫌われていたことも事実だ。彼ら集団で暮らす海の哺乳類は、自分たちの腹を満たすために 養殖イカダの網を破り、小魚を追い回す憎き悪魔なのである。彼らに追いかけられると魚は逃げてしまう。漁師にとっては目的の獲物がいなくなってしまうからまさに死活問題である。これは山あいの農家にとっての鹿やイノシシに対する感情と全く同じ思いではないかと思う。もちろんその鹿やイノシシでも『動物愛護』の名目の下、かわいそうだから殺すべきではないと大声で 叫ぶ人たちだっている。まぁしかしそんな人は間違いなく農家ではないのだが。

 ここからは小学生の言い合いみたいになってしまうが、私は半分以上本気である。

 『生き物はみんな友達』主義はさらにエスカレートする。捕鯨は我が国の独自の文化であるが、世界の偽善団体の活動が引き金となり、禁止されてしまった。なんでもクジラは頭がいいから、また人間の友達だから ということらしい。なんじゃそら? 日本人の中にさえ声高にそんな主張に加勢する人たちがいるのは理解できない。

 実験動物のマウスやモルモットなんかに対しても同じく、残酷だから殺すのはダメだって言うし、街中の野犬やノラ猫も殺処分廃止論争が喧しい。しかし この世に生を受けた全ての命を人間の都合で判断してはいけないのなら、害獣、害虫はいうに及ばず、病原体である細菌やウイルスも立派な生き物に変わりない。
 大きいものは殺したらダメで 小さなものは撲滅させても良いのかな(笑)? アルコール消毒でいったい何万、何十万の命が失われるんだろう?感染症にかかっても当然抗生物質は使えないし、病気や傷を治療する、という考え方はそもそもできない。『生き物はみんな友達だ!』と甘ったるい非現実的な主張を繰り出すこれらエセ博愛主義者には、どうぞ蚊取り線香も殺虫剤も使わず、たとえエボラ出血熱にかかっても ウイルスを殺すのは間違っているんだから、医師には『治療せずに放置してくれ』といってほしいものだ。

 現代において、我々は死というもののから遠ざけられて暮らしている。それによって死は 非日常で特別なものになった。グルメ番組では、とろけるようなA5の国産牛肉を紹介するが、当然その前に行われる屠殺の事実は 公には絶対出てこない。TV番組で『牛が肉になるまで』みたいな特集はこの先もあり得ない第一級のタブーだ。なぜなら『残酷だから』だ。しかし人間は生き物の肉を食べないと生きてはいけないし、我々は毎日毎日生き物を大量に殺しているのである。殺すことそのものが残酷でダメだというのなら、何も食べられなくなる。

 自然界のほぼ全ての動物は、自分の生を長らえるために他の動物の命を奪い、自らも違う何者かの食べ物となるのである。人間は幸いなことに違う動物の餌食となることは今はない。生というものは、もっとドライで抗いようのない上下の関係、主従の関係、与奪の関係なのである。
 人間は平和すぎる。本当にボケている。なにが『生き物はみんな平等』だ? くだんのイルカショーも、見に来たお客が笑顔で動物とのふれあいを楽しめばいいし大騒ぎすることではない。

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