根性論ではない努力
〽思い込んだら 試練の道を
行くが男の ど根性
真っ赤に燃えた 王者の印
巨人の星を つかむまで
血の汗流せ 涙をふくな
ゆけゆけ飛雄馬 ドンと行け (後略)
※『巨人の星』主題歌『ゆけゆけ飛雄馬』
歌唱 アンサンブル・ボッカ
カーンキーンコーンというバットの快音に続き ザッザッザッとグラウンドを駆けすべり込む土の音。テーマソングが始まる前に 球場のSEが入るこの番組のオープニングが大好きだった。スタイリスティックスの名曲である “ Can't Give You Anything(But My Love)” のイントロに通じるものを感じるのは私だけだろうか・・・。
当時は何もかもが根性論だった気がする。不足しているところは精神力で補う。『足りぬ足りぬは工夫が足りぬ』よろしく、色んなことを努力でカバーしようとしていた。制服やユニフォームに体の方を合わせ、夏休みには水も飲まずにうさぎ跳びで校庭を回らされた。吐くまでランニングし、試合に負けたのは『試合に出ていない者の声が小さかったからだ』という理屈にも納得していたことを思い出す。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
令和の今『巨人の星的根性論』はスポーツ界でさえ否定され敬遠されている。しかし強く・巧くなるためには自分の限界に挑戦するような 厳しい練習に耐える必要があるのは今でも厳然たる事実だし、当然そのためには精神の強さも必須となる。中にはフンワリほのぼのした空気に包まれた毎日であってさえ、自分を追い詰めることを繰り返せる人もいるかもしれないが、多くの場合それは難しい。だから実力向上を目指すのであれば、鍛錬の場の空気が張り詰めているのは不可欠な条件ともいえるのだ。箱根駅伝で優勝した青学については かなりマスコミによる印象操作がなされてはいるが、部員がサボりたい時に勝手にサボれる環境にあるわけではなく、正に血の汗を流す思いで苦しい走り込みにも当たり前に耐えているのである。
では鍛錬の場における張り詰めた空気は何をもって作るのか? 今はスポーツ界だけではなく、ビジネスや学校の教室現場においても『厳しい』というワードは敬遠されつつある。マイルドでユルい指導現場こそが優れていて、叱るという行為もダメなら競争させることさえ敬遠しているようにも感じるが、そんな世間の風潮の中でもピーンとした空気を作れるか否かということにこそ指導者の手腕がモノをいうのだと思う。
反発覚悟で大上段から偉そうに言うならば、周囲の空気に流されて、選手や部下、また生徒の顔色をうかがっているだけの監督、上司、教員は 恩師や恩人と呼ばれる存在には程遠い。そんなリーダーが率いるチームは、まとまることもなく 成果も出せないから、結局仲良しごっこをしているだけになりかねないのである。