『スマドリ』の前に
さて忘年会シーズンである。各社各団体各組織各クラスの幹事さんたちは、既に予約を完了されているのだろうか。ご苦労なことだ。
それはそうと最近TVから『スマドリ』なるワードが聞こえてくるが、アルコールが好きな人もそうでない人も、自分に合ったドリンクが許される、要するに場の圧で酒を強要せず されず、飲めない人もソフトドリンクやノンアルでええやん! ってことらしい。しかし日本のアフターファイブにはアルコール摂取・非摂取の比較的低いハードルの前に『出席する・しない』という、とてつもなく高い障壁があることをおわかりか?
何より和を重んじる我ら大和民族においては、飲むか飲まないかの前に、(特に若い世代にとっては)行くか行かないかの問題をクリアすることの方が比較にならない程の大問題であろう。こういったセレモニーでは、仲間意識を測る踏み絵が同時に行われているようなものだからだ。チームリーダーが主催、または音頭をとる場合にはその色合いが格段に強くなる。
思うのだが この『スマドリ』という価値観、飲めないことを飲み会に参加しなかった理由にしていた 一部の人々の『錦の御旗』を奪ってはいないだろうか。この言葉が今以上に市民権を得ることになれば、酒が飲めないという事が飲み会に参加しない理由にはならないのである。これはいいことなのか?
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今の学校に着任した時には『◯◯会』はまだ職場に存在していたが、私が校長になってからは まず誰かに酒を注ぐということと、注文を取り店員に繋ぐ行為を禁止した。新人たちはクルクル動き回って 飲食を楽しむどころではないように見えたからだ。その形を数年続けたように記憶しているが、結局全体での忘年会をはじめとする『◯◯会』をやめてしまって今に至る。参加することにどうしても圧力がかかるからだ。そんなことはやりたい人だけでやればいい。
もちろん送別会や歓迎会なども必要無い。なぜなら例えば送別会開催の主旨は 去りゆく人との別れを惜しみ、感謝と共に思い出を語りながらその人の将来を願う催しであるはずなのに、私の経験する限り 最初または最後にその会の主役が一言二言挨拶するだけで、後はただの飲み会であり、別れゆく人のことなど全く話題にもならないどころか眼中にさえないのが現実だったからだ。そんな集まりなら不要だし これ程失礼なことはない。
さて年末スペシャルとして、『◯◯会』のイヤなところをで勝手に大放出してみたい。
⚫︎注ぎつ注がれつの感じが嫌だ
⚫︎目下から目上の人への礼儀が嫌だ
⚫︎『ここらで一曲!』や『一発披露!』
みたいなノリが嫌だ
⚫︎『からの~』みたいな有無を言わせない
ノリはもっと嫌だ
⚫︎酒を飲むと人が変わるヤツが嫌だ
⚫︎それを許し、笑いにする風潮が嫌だ
その他、悪酔いしたり酔っぱらってしまうヤツらには近寄りたくもない。寝る、叫ぶ、泣く、絡む、すねる、ひねくれる、自慢する、言葉遣いが汚くなる、悪口を言う、下品になる、・・・。とにかくこんなのは全部ダメだ。しかし最悪なのは吐くことか。何が悲しくてわざわざ金出して酒飲んで吐かなきゃならんのだ? バカじゃないのか? 年末にかけて増えてくる、繁華街の路上の隅にいるゲロってるような若いヤツらには軽蔑の思いしかない。
しかし改めて今思うのだが、なんで年を忘れなきゃならんのだろう? 私にとっては今年もその前も、別に忘れないといけない年ではなかったんだけどなぁ。そもそも酒を飲んだからといって 年を忘れることなどできないしね。