差別!と差別?
人間は差をつけたがる生き物である。でも本当は人間だけじゃなく、生きていればあらゆる生き物において自然に序列はできるものだ。我々の身近なところでも「あいつより私の方が可愛い」とか「あの人は私より金持ちだ」とか「コイツより俺の方が社会的には上だ」のように人同士を相対的に(しかも無意識に)比較する。しかしうがった見方かもしれないが、上下の序列というもののおかげで余計な争いやトラブルを避けることができているともいえる。これはこの世界の摂理なのかもしれない。
“ROOTS” という米国のテレビドラマが日本でも放映され、一世を風靡したのはもう40年以上前のことだろうか。当時高校生だった私は、ヨーロッパの白人が、アフリカの住人である黒人の「狩り」を行い、あろうことか別の土地に送る商品にするという非道を行ったことに、怒りだけではない感情を持ったものだ。しかし後で知ったことだが、アフリカ西部に複数存在していた小王国の君主(当然黒人である)が、白人の商人から武器などを手に入れるため、引き換えとして同胞である黒人を捕らえて売っていた事実には耳を疑った。まさしく黒歴史である。
ナチスドイツの選民思想は、聞かれれば誰もが非人道的な考えだと答えるだろうが、アングロサクソンを筆頭にした白人種たちの心の底の部分には、「黒人やアジア人といった有色人種とは違う我々こそ一番優れている」といったエリート意識を持つ人たちが一定数存在すると思ってしまうのは自虐が過ぎるだろうか。私自身、生徒たちの引率でヨーロッパには10年以上毎年行かせもらっていたが、現地人の中には空港、街中、ホテルなどのあらゆる場面で、有色人種に対する自分たちの優位を誇示してるような人もいたし、明らかに我々を馬鹿にするような人もいた。米国においては今でもKKKなどという組織が存在するところをみると、人種問題の根深さを感じざるを得ないし、地球上の人類が皆完全に平等に暮らす「イマジン」な世界は幻想でしかない。
別の観点から。米国でしばしば問題になって、全米でデモまで起きてしまう白人警官による黒人への暴行について述べてみたい。あの類いのニュースを見ていると、確かに人が人を殴り、蹴り、目を背けたくなる程の酷い暴力だったりする。しかし 対象を入れ替えるとどうなるか? 白人警察が白人を、また黒人警察が黒人を、さらに黒人警察が白人を殴り蹴る時にも同じように問題になっているだろうか? もしそうでないのならなぜなのか? きっとそのような事例も数えきれないほどあるはずなのにと思う。白人が黒人に対して暴行をはたらいた時のみ社会が反応して人種差別だと糾弾することは正しいのか?
過去においては黒人差別問題として扱われたことで、カルピスの商標やダッコちゃん人形も我々の前から姿を消し、黒人をモチーフにしたマネキンにもクレームがついて撤去され、絵本「ちびくろサンボ」も自主回収された。私は黒人の苦難の歴史に犠牲となった方々を悼み、また当時の白人の非人道的なやり方を憎む気持ちは人並み以上にあるつもりだし、今も厳然と人種差別の事実があることは認識してはいるものの、黒人を模したり表現しただけで差別だと糾弾することに無理はないのだろうか? 半ば蔑んだ意味で日本人を表現する際、低身長、一重で釣り目、出っ歯、眼鏡、首から下げたカメラ、のような描写がステレオタイプであることを承知しているが、それに対し腹立たしく感じるには私たち日本人がそれらの一つ一つを「格好の悪いもの」としてとらえていることが条件となる。だから馬鹿にされていると感じるのだ。しかし黒人の方々は皮膚が黒いことを「格好の悪いもの」だと思っておられるとは思えないし全くその必要もない。顔を黒く塗ればすなわち黒人差別だというのなら、例えばコントなどで、白人の高い鼻を誇張するために付け鼻をしたりすることなど絶対ダメだろうし、中国人の男が弁髪で極端に長い口髭をカールさせていることだってもちろんアウトだ。黒ではなく逆に白く塗れば今度は白人差別のはずなのに、世間でそれを問われた事実を私は知らない。日本においては歌舞伎の白塗り、志村けんさんのバカ殿、祇園の舞妓や芸妓など。もちろんそれらに問題があるとは微塵も思わないし、そうであるはずもない。とにもかくにも世間で騒がれるのは黒塗り(ブラックフェイス)の時だけなのである。私にはどうしてもどこかずれているように思えて仕方ない。
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