![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/155278104/rectangle_large_type_2_588e3451bd8dd0fa15ccb48393a95e4b.jpg?width=1200)
武道はスポーツたり得るか
武道はスポーツたり得るか。
日本武道館のオフィシャルサイトに武道の定義が述べられている。『武道は、武士道の伝統に由来する日本で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、人間形成の道であり、柔道、剣道、弓道、相撲、空手道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道の総称を言う』とのことである。そう。スポーツとは一線を画しているのだ。
スポーツであれば 競技として当然規定やルールは必要なのだが、武道というものは階級やカテゴリーのような決まり事とは あまり親和性が高くない。勝った負けたという競技としての側面より、その鍛錬によって育まれる精神性の方が優先するからだ。
日本の国技たる大相撲の世界(角界)においては、大関や横綱になるには単純に勝ち数や勝率だけでなく、ふさわしいか否かが問われる。その称号を与えても恥ずかしくない人物である必要があるのである(もしサッカー選手に 武道の目線で地位や階級を付与するなら、当たってもいないのに、また痛くもないのにグラウンドを転げ回るスタープレイヤーなんかは 選手資格を剥奪されるに違いないw)。こんなところがスポーツとは根本的に違う部分なのだが、近年はそう言い切れなくなっている。
柔道は全世界に広がっていわゆる競技スポーツとなり、JUDO と名を変えた。小さい人が大きい人を投げたり倒したりすることに極意があるとされていた元々の柔道は、JUDO になったことで 残念ながら武道の精神からは外れてしまいかけているといえる。それでもわずかに 我が国で開催されている、全日本柔道選手権大会は、毎年無差別級の日本一を決める大会として、古来より受け継がれてきた威厳のカケラをなんとか保っている。鍛錬で磨かれた技の切れ味によって全てが決する柔道は、一瞬こそが全てであり やり直しはないという考えからだろう、当該大会においては敗者復活戦などという考え方はない。
さてここで阿部一二三、詩のご兄妹に話を移そう。お兄さんの一二三選手はさすがの貫禄で、見事オリンピック2連覇を成し遂げられた。ひと度全体の勝者になれば、周りの全てが自分への挑戦者となる。また外野であるマスコミというものはさしたる考えも配慮もなく、連覇連覇と騒ぎ立てるものだが、そんなプレッシャーの中にあっての栄冠である。精神的にも苦しかっただろう。素晴らしいと思う。
一方妹さんの詩選手は、きっと JUDO が一発勝負のトーナメントではなく、プロ野球のように長期間の間に同じ相手に何度も対戦するような方式であれば、まちがいなく勝率世界一じゃないのかな? と思えるほどの実力であることは間違いないが、パリでの2回戦で前述の『一瞬』を相手側に与えてしまった。試合後の詩選手の全身から湧き起こった無念の慟哭や、彼女が会場を去るまでの大騒ぎは全国民が知るところである。しかしあれは武道に勤しむ者の姿ではない。
試合を行う畳の上で喜びのあまりガッツポーズをしてしまうと、下手すると失格になるのが武道である。ましてや負けた悲しみから神聖な畳の上でうずくまり、あろうことか会場に響き渡るほどの大絶叫をしたことが何の問題にもならないことも、柔道がJUDO というスポーツに変わったからこそである。JUDO の『武道含有率(笑)』は今や10% にも満たないのではないかと私は思っているが、まだ競技スポーツとはなっていないような 高い『武道含有率』を保っている他の武道(たとえば剣道など)の試合だったなら、彼女には厳しい処分が下っていただろうと思っている。