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「空(くう)」あり

 ぎゃぁてぇぎゃぁてぇはぁらぁぎゃぁてぇ はらそぉぎゃぁてぇぼぉじぃそわかぁぁぁ。有名なまじないである。真言(しんごん)である。随分前、ふと耳にした経文の最後の部分であるこのフレーズにその時の私は反応した。そして何故か 坊主でもないのにこのお経を全部覚えようと思ったのだった。

 クライマックス部分にこの真言を頂く般若心経。正式には般若波羅蜜多心経。短く心経ともいう。孫悟空で有名な西遊記に登場する三蔵法師が訳したらしい、仏教の真髄、また根本思想を短い文章の中に表し尽くしたものだといわれるが、あの空海も注釈本を書いている。このお経は大変短く 全文読んでも3分もかからない(だから覚えようなどとも思った訳だが)。

 私はYouTubeで視聴できるお経を繰り返し聴き、自分でもスマホをボイスレコーダーとして使いながら随分頑張った。通勤中歩きながらスマホに向かって毎日お経を唱えながら、時折舌打ちをするオッさんは、見ていてさぞ気持ち悪かったことだろう。しかし年齢的なものもありこんがらがってしまってなかなか覚えられない。どうしてこんなにも覚えられないんだろう? 紙に書いても たかだか15.6行に過ぎない長さなのに!
 抜け出せないポケットにハマった私は、脳みその衰えにもがきながら 一つの信憑性ある仮説に行き着いた。きっと記憶作業が遅々として進まないのは 意味がよくわからないまま、とにかく音として丸暗記しようとするからなのだ。意味がわかればただの丸暗記ではなくなるはずだと。
 私は書籍でこのお経の意味を知ろうと考えた。職場の近くの巨大書店に行くと、仏教について また般若心経について、実に様々な解説本を これまた実に様々な人が書いていることを知った。その中の2冊を買い求め、さらにネットから信頼できそうなサイトを探し独自に参考資料としていくつかの冊子を作った。読み返し聴き返しながら理解しようとした結果、悟りの境地には程遠いのではあろうが、入門レベルのことはフワッとわかったようには思えた。仏教の根本理念である「空(くう)」とは、数学でいうところの「0」なのかなぁ? などと能天気に考えたりしながら、はじめの予想とは違い 大変楽しい時間を過ごした。
 もちろんはじめは仏教のことをそれほど深く理解しようなどとは思わなかったのだが、色々なことを知っていく内に 次々と興味が深まり、好奇心は多岐に渡っていった。各宗派を誕生させた聖人、教義やしきたり、また実際に寺院を訪れれば伽藍(寺の建物)の配置についても感心し、また元は仏教用語であったにも関わらず当たり前に使っている現代語にも膝を打ち、葬儀に参列すれば不謹慎ながら死者を悼む気持ちとは「別腹」で、お経の言葉や僧侶の衣装や作法に目を奪われた。

 特に仏教マイブームの中でも、人の生まれ変わり(輪廻転生)についてはゾクゾクするほど興味があったし、中でも貴賎を問わず当時の人々が心から恐れた地獄というものに強く惹きつけられた。改めて地獄がテーマの幼児向けの絵本も楽天で取り寄せた程だ。歴史を紐とくと 平安時代以降 長らくの間、人々はこの世で殺生をしている自分自身が地獄に落ちる運命であることを心の底から恐れていたから、往生の際、楽器を楽しそうに奏でる管弦楽団である25菩薩を引き連れ、雲に乗って阿弥陀如来が極楽浄土から迎えに来て、また連れて行ってくれるという阿弥陀信仰は、爆発的に信者を増やした。極楽浄土からやって来る阿弥陀様のお迎えは、地獄に行きたくないあらゆる階層の人々にとって最後で最大の願いだった訳だ。しかしそんな願い虚しく阿弥陀様が来なかった時にはどうなるのか? そこで登場するのが地蔵菩薩、つまりお地蔵様だ。街の辻々にお地蔵様が祀られていたり、墓地にお地蔵様があるのは、地獄において罪人や子供を救ってくれるのが地蔵菩薩だからなのである。

 地獄におちる運命から逃れるために貴族は名のある仏師に祈りの対象である仏像を作らせた。それは自分が地獄で苦しまないように救ってほしいという心の叫びであったのだろう。そんな阿弥陀如来や地蔵菩薩をはじめとして、仏様を具現したものである仏像というものに私はハマった。以来、評判になっている寺院を訪れた時はもとより、たまたま訪れた地で 偶然知った古刹にひっそりと佇むお姿を拝することができた時には無上の喜びを感じるものだ。血のにじむような人々の願いや涙を何百年、時には1千年以上受け止めてきたお像を前にすると、陶酔に近いものを感じる体になってしまった(笑) 世の仏ガールと呼ばれる女子たちもきっと私と同類の感覚を持っているのではと想像する。

 仏像を見れば 作られた時代や制作の技法、また手の形など 一体一体がたどった運命に興味が興味を呼んだ末、知れば知るほど抜け出せない 好奇心の泥沼にはまり、職場の朝礼では仏像や仏教にまつわる話を さも何でもわかっているかのような顔をして偉そうに話せるほどにはなれた(笑)

 さて随分回り道をしたが 冒頭に触れた般若心経である。仏教のことを広く調べたことが確実にプラスに働いたのだろうか、とにかくお経の全文をそらで唱えるようにはなった。今では真言密教の寺院を訪れると時折聞こえる般若心経の一節に合わせてユニゾンでハモるような 相当気持ち悪いオッさんになっている(笑)
 般若心経全体を包む思想は この世の、また宇宙の真理である「空」だ。世の中の 目に見えるものも見えないものも全て、本当はその実体は無い。たまたま物として在るように見えるが、永遠のものなどない。また同じく感情や感覚というものも全て無い。とにかく世の中の全ては無い無い無い。これは深いんだけどホントよくわからない。

 ある日街を歩いているとどこにでもあるような駐車場に「空あり」という看板があり、仏教の根本思想がこんな身近な所に存在していたのか!? と思ったという かのみうらじゅん氏のコラムを雑誌に見つけたことがある。「空」というものを考える時、私とは何か?という疑問に足を取られる。なんせ私のこの体も無いんだし、気持ちも無いものだ。じゃあ「私」というものも無いじゃない。鏡に映るこの男は誰だ? 教えてくれよ、空海さん。
 事故で手足を失ったとしても、さらに胴体を、顔を、目を、耳を、鼻を、髪が無くとも、または他人のものと入れ替えてみてもやっぱりそれは「私」である。あっそうか!脳か!って思いを巡らしてみよう。現代の医学では脳移植はできないんだろうけど、しかし脳をそっくり移植しても「私」はやはりそこにいるのだと思う。そう考えると、目に見える部分を全て失くしても「私」のままなのである。ならば見えないところが「私」の本体なのか?「私」とは見えない何かなのか? ・・・当たり前だけどそんなに簡単に理解できる訳はないのだろう。

 「空」。それは深く、また遠い。

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