【短編小説】『リスミー』
『リスミー』
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“神”が相談を持ちかけてきた。
「なあ、そろそろ人類を滅ぼしてしまおうと思うんだけど問題はないかな?」
ほう、と俺は思った。
今までにないパターンだ、と思った。
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家の裏手の湖畔。俺は煙草を吸っていた。八月。やすりでとがれたかのような鋭い三日月が空に浮かんでいた。時刻は深夜の二時ごろだったと思うが、正確なところは覚えていない。この後に起こる出来事があまりにも現実とかけ離れていたせいで、どうも俺がそのときに認識していたものさえも信用に足らないもののように思えてしまうのだ。
“神”は音もなく現れた。というよりは、気がついたら隣にいた。
「人間だよね、キミ?」
俺は左手を向いた。
「ああ」
答えながら、質問者の全貌を観察した。すぐにそれが現実の枠組みなど超越したものであるとわかった。それの周りの空間が少しずつ歪みはじめているように見えた。
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それの輪郭は神経が麻痺した左手で書いた落書きのようだった。不安定に、忙しなく揺れていた。今なお流動していた。一度目をそらし再度見やると形は微妙に変わっていた。だが、頭部の形はおおむね鳥類の頭骨のような形状にとどまっていた。そこには奥深い空洞が四つほど空いていた。そのうちのどれかが—またはすべてが—目のような役割を担っているのだろう。ともかく、穴は四つとも俺に注がれていた。
そして、それはかなりでかかった。三メートルは優にある。頭骨部以外は黒いカーテンのようなのっぺりとした闇がのびているだけだ。見ていると吸い込まれそうになるほどの完璧な闇だった。その黒色は明確にリアルじゃなかった。
「神なんだけど、ワタシ、キミたちの言うところの」とそれは言った。クリッピング・ノイズのような、居心地の悪い響きを持った声だった。
「神」と俺はくりかえす。
「ちょっと相談があって、話しかけたんだ」とそれは言う。
「相談?」と俺はまたくりかえした。
「うん」“神”は肯いた。
そして言ったのだ。
「なあ、そろそろ、人類を滅ぼしてしまおうと思うんだけど問題はないかな?」
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「それは少し困る」と俺は言った。
「なぜ困る?」
「娘がいるんだ。いま世界が終わったら、彼女は九年しか生きなかったことになる」
「ふむ」と神は言った。頭骨がゆっくりと傾げられた。
俺は湖面にちらと視線をやった。そこには俺の虚像しか映っていなかった。
「もっとも」と俺はつづけた。「そんなこと、あんたにとっては知ったところじゃないだろうがな。というよりなぜ相談なんてするんだ? 予告もなくさっさと滅ぼしてしまえばいいのに」
「それはもちろんだけど」
「だけど?」
「いちおう事前に人間側のひとと話しておきたくって」
「それじゃ、よりにもよってなぜここに来た?」
「たまたま降りちゃったんだ。どこでもよかった。そこにキミがいた。だから話しかけた」
「ふむ」俺は目を細めて奴を見上げた。「お前、本当に神なのか?」
“神”はぶるぶると黒い身体を揺らせた。すると細い枝木のようなものが左右から現れた。おそらく、腕だ。それらはばっと大きく開かれる。
「正真正銘の神だよ」とやつは答えた。
「ワタシからもひとつ質問していい?」
「いいよ」
「キミ、よくビビらないね」
俺はため息をついた。
「よくわからない」と言った。
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“神”いわく、人類は滅ぼされる運命にある生命体らしい。
「地球という惑星が生まれたのは人間が定住するためじゃないんだ」とやつは言った。「もともとはまったく別の生物を住まわせる予定だったんだよ。だけどそのためには惑星の環境がじゅうぶんに整ってなかった。だから、状態を落ち着かせるために君たちを生み出したんだ。キミたちもよくやるだろう。水槽に熱帯魚を放り込む前にバクテリアを発生させる。そんな感じだよ。ワタシがキミたちというバクテリアを生み出したんだ」
バクテリアか、と俺は思った。
「人類が生まれたのは500万年前だったと記憶してる。そこまでの時間をただ待っていたのか?」
「500万年なんてね、こっちからしたら大したことない時間量なんだよ」とやつは言った。笑っているように見えた。「でも、確かに放置しすぎたかなとは思うね。久しぶりに見たら、キミたちはどんどん大きくなって、自堕落になって、愚かになってた。ちゃちな殺しあいだってはじめちゃう始末だ。でも環境自体は正しいものにできあがっていた。本来ここに住むはずだった生物もじゅうぶんに生息できるくらいのものに」
「だから俺たちはお払い箱ってことか」
「つまりはそうなる。少々乱暴な言い方になっちゃうけど」
俺はため息をついて眉根をもんだ。なにかを言うべきだったが適切な言葉は出てきそうになかった。そのかわりに人類代表として俺が発した言葉は、かなり間の抜けたものだった。
「人類が滅ぼされるときには宇宙人がやってくるものだと思っていた」
“神”はしばらくその言葉を咀嚼していた。そして言った。
「神が来るとは思わなかったかい?」
「ああ」
「がっかりされても困るよ」
「がっかりはしていない」
「そもそもね」やつはつづけた。「ほかの惑星の生物には干渉できないように、ワタシがあらかじめ設定してあるんだ。だから宇宙人は攻めてこないよ。これないと言ったほうが正しいかな。キミたちは火星とか月とか、他に生物のいない惑星ばかりに行こうとしてるから、そんなことは知らないと思うけど」
「『E・T』みたいなことは起こり得ないわけか」
「……いーてぃー?」
「映画だよ」と俺は言った。「知らないのか?」
“神”は「映画」という事物すら知らなかった。俺は教えてやった。
「その、いーてぃーはどこで観れるんだ?」
「観たいのか?」
「観たい」
俺は”神”にDVDを貸してやった。”神”は「また来るよ」と言い残し、『E・T』のパッケージを手にしたまま消えた。あっという間に。
奇妙な夢のような時間だった。だが、湖畔に戻ると奴がいたはずの場所には楕円形のくぼみができていた。俺はかがみ込んで、地面に押さえつけられた雑草群を撫でてみた。どうやら、やつの存在は幻覚ではなかったらしい。
俺は”神”と会ったのだ。そして、”神”は人類の歴史を終わらせようとしている。
家に戻り、リカの寝顔をしばらく眺めてから、ベッドに入った。身体がだるい。
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次の日にも”神”は現れた。
「人類にチャンスを与えることにしたよ」とやつは言った。「それを達成すれば、彼らはこの先も地球で生きられる。さすがに、なんの予告もなく人類滅亡じゃドラマがないからね」
「どういう心変わりだ?」と俺は訊いた。昨日の夜の時点では交渉の余地などないように見えた。
「『E・T』」とやつは答えた。「素晴らしかった」
「はあ」俺は煙草に火をつけた。
「感動した」
「そうか」
「それでチャンスを与えることにしたんだ」
人類はスピルバーグに心から敬意を払わなければならない。
「チャンスとは?」と俺は訊いた。
“神”は身体を折って、(おそらく)そこに座った。背丈が一メートルばかり低くなった。
「人類を試すんだ。このまま生息しつづける価値があるのかどうか」不気味な頭骨は言う。「世界全体に提案する。500万人の犠牲を用意できるようなら人類滅亡は見送ろうと。少なくとも、キミの娘が死ぬまでは放っておくよ。だいたい百年くらいかな。もっと生きる?」
「生きない。それくらいで十分だ」と俺は答えた。そのあとで「500万人」とひとりごとのようにつぶやく。
「人類誕生の歴史からの年数とかけているんだ」”神”は誇らしげに言う。
「それはまた」
「500万というのはニュージーランドやアイルランドの総人口とほとんど同数だ。どう、なかなかいいラインだと思わないかい? 人類が用意できるか否か」
人類はおそらく100万人の犠牲だって用意できないだろう、と俺は思ったがそのことについては言わなかった。「期限は?」と訊いた。
「明日の朝から五日間」
「そうか」
長い間があった。
“神”は言った。
「『E・T』の少年のような健気さを人類がまだ持ち合わせているのかどうか、見極めておきたいんだよ」
「そうか」と俺は言った。
「キミはどう思う?」
俺は少し考えてみた。そして言った。
「五日後に人類は滅亡しているだろう」
そのとき後ろの茂みがガサガサと揺れた。なにかが近づいてくるのがわかった。「おとうさん?」とそれは言った。リカだった。
「どうした?」と俺は声をかけた。
生い茂った草のあいだから、まだ小さな女の姿が見えた。薄ピンクのワンピースを着ている。寝巻きにしているものなので、あちこちに皺が寄っている。
「目がさめたら、おとうさんがいなくて、それで……」とリカは言った。「なにかおしゃべりしてたの? 電話?」
「いや」と俺は言った。”神”のほうを見やった。
やつは消えていた。
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テレビをつけた。すべてのチャンネルで同じ映像が放送されていた。ホワイトハウスからの中継らしかった。
“神”が映っていた。
やつは俺に話したとおりのことを声明として表した。
人類は唐突に死刑宣告をくだされたわけだ。
なんでか、俺は笑ってしまった。
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学校に行っていたリカが昼前に帰ってきた。
「明日から学校お休みになるって」と娘は言った。
「そうか」と俺は言った。
彼女はおびえているようだった。俺はその小さな身体を強く抱きしめた。
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「
やあ、ワタシは神だ。
今から人類を滅ぼす。
キミたちからしたら相当な一大事だとは思うけれど、宇宙の星々では 往々にして起きてきたことなんだ。その星の主生物を消してしまうということは、ね。ワタシはそれをする。
ただ、キミたちにはそれを避ける特例措置を設けた。
猶予は今日から五日間。
それまでにキミたちのなかから500万人の生贄を提出すること。
そうすればあと百年は人類を放っておくと誓うよ。
生贄の選出方法だけど、なんでもありにすると面白くないから制限をつける。
立候補か話し合いでの選出に限定する。この二つだけしか認めない。
ちなみに、話し合いの場合は犠牲者側の心からの承認が必要になる。誰かにむりやり押し付けるのはダメってことだ。そういうのはわかっちゃうんだよ。いちおう、ワタシ神だから。
言わなきゃいけないことはこれくらいかしら。
じゃあ、また五日後に。
」
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“神”が世界に向けて放った一連の文句は、テレビやラジオ、新聞などでさかんに報じられつづけた。最初、多くの人間はそれを悪いジョークとして受け取っていた。全員が全員、自分は悪夢を見ているのだと考えた。
そんな世相を見てのことだろう、”神”は自分の存在の確かさを証明するために、南アメリカ大陸を日本と北アメリカ大陸のあいだにむりくり移動させた。そしてその下にぴったりとオーストラリア大陸をくっつけた。太平洋の範囲が極端にせまくなったわけだ。
その力業をもって、世界は”神”からの提案に真剣に取り組まざるをえなくなった。あらゆる形の常識が無残に破壊された。
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夕飯にはチキンライスとポトフを食べた。
リカは食事のあいだじゅう、ずっと虚ろな表情を浮かべていた。
「どうした?」と俺は訊いた。
「どうしたって……」とリカは言った。「神さまがみんな殺しちゃうってテレビでいってた。それが怖いの」
みんなには俺もお前も入っているんだぞ、と俺は言わなかった。死んでしまえばなにもわからないさ。
ベッドサイドのランプを消して、俺は言った。
「リカ、これから世界はぐしゃぐしゃになる。落胆するような光景が何度も目の前で繰り返されるし、テレビにも映る。だがな、これがほんとうなんだ。表面化していなかっただけで、これがほんとうなんだ」
リカは俺の言ったことがよくわからなかったようだ。「おとうさんは生きてて楽しくなかったの?」と訊いてきた。
「楽しくなんかなかったよ」と俺は答えた。
しばらく沈黙がつづいた。
「それでも生きてきたのは」と俺はつづけた。「お前がいるからだ。お前といっしょにいる時間だけは楽しいと思えた。それが、それだけが俺の生きがいだった」
リカはくすくすと子供らしく微笑んだ。
「ありがと」とリカは言った。
「死ぬのが怖いか?」と俺は訊いた。
娘は少し考えたあとで言った。
「おとうさんといっしょだったら怖くないよ。大丈夫」
俺はランプの灯りを消して、彼女の額にくちづけをした。
あと四日だ、と思った。
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自室には映画作品のDVDやビデオテープが所狭しと並んでいる。こどもの頃から集めつづけたものだ。俺が夢中になれたものといえば、これだけだった。映画。
人生の名場面をプレイバックするかのように、目についたディスクをビデオデッキに読み込ませた。朝まで五本の映画をたてつづけに観た。
『時計じかけのオレンジ』、『マンハッタン』、『デッドマン』、『ブルー・ベルベット』、『スモーク』。
映画は虚構。
しかしいま、虚構以上のことが現実に起きている。
ならば、そのふたつのあいだの境界線も移動してしかるべきだ。
『スモーク』のエンドロールが終わったちょうどそのとき、俺を呼ぶリカの声が聞こえた。
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リカと図書館をおとずれた。
予想できていたことだが、当然職員の姿はなかった。人類が滅ぶというのに誰が好きこのんで労働なんかに従事するだろう。入り口のガラス扉を割り、鍵を開けてなかに入った。
ひとの気配というものが抜け切った図書館で、俺は人類史についての書籍を読み込んだ。なんとなくそうしたかった。当の人類史が終わってしまうまえにその変遷をざっと復習すべきだと思ったのかもしれない。
最後のページまで読み終えると、たしかに”神”の言ったとおり、人類の生息した500万年間など宇宙規模でみればちっぽけなものであるように思えてきた。そのなかのせいぜい100年間しか生きることのできない俺たちなど、さらにちっぽけだ。そしてその100年のあいだに生まれる何億人ものなかのたったひとりである個人はさらにちっぽけ。入れ子式人形のように、その圧縮はつづいていく。存在がどんどん些細なものに変遷していく。
リカは絵本コーナーにいた。ひとりで笑っていた。こんな状況にあって、この子はなぜ泣いたりしないのだろうと不思議に思った。少し考えて、残念なことだが俺に似てしまったのだという結論に行き着いた。
「リカ」声をかけた。「帰ろう」
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「あと三日だよ」と”神”は言った。
「そうだな」と俺は言った。
「テレビを見てるかい?」
「まだ放送しているのか?」
「うん、誰かに強制されてるわけでもないのにね。人類は律儀だよ。滅ぼされる直前まで仕事をするんだ」
「そうか」
「大混乱が起きているよ。けっこう見ものだと思うけど」
「それを目にしたくないから、なにも見ないようにしているんだ」
「ふうん」”神”は興味が失せたとでもいうように、いやに間延びした声を出した。
「キミみたいなやつばっかだと思っていたんだ。人間という生きものはみんな」やがて、”神”はそう言った。「なにしろ人類のなかで最初に出会ったのがキミだからね。そう思っても仕方がないだろう? でも実際は違った。人類はもっと必死で、醜かった。それもそのはず。そうじゃないと、ここまで発展していないだろうからね」
「俺は必死じゃないと?」俺は訊いた。
「普通はさ」“神”は枯れ枝のような腕で湖畔の水面をすくった。音もなかった。「あなたたちを今すぐに滅亡させるといったらもう少し慌てるものじゃないか」
「抗ってもしょうがないと思ったんだ。人類が滅ぼされることはあらかじめ決まっていたんだろう?」
「まあ、そうだけど」
俺はなにも言わなかった。
「娘さんは受け入れてるの?」
“神”はふと思い出したという調子で訊いた。
「どうだろう」と俺は答えた。「わからない」
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次の日の朝、何日かぶりにテレビをつけてみた。
テロップも編集映像もないニュース番組だった。ただ、世界各所で撮られた映像が流され、それに対してアナウンサーが説明を加えていた。ハイウェイに放置された自動車、燃えさかる高層ビル、もぬけのからとなった街。
首脳会談がひらかれたらしい。何の合意もえられないまま、その会談は終わった。どこかの国の首相がみずから命を絶った。
犠牲者の数が足りていないと女のアナウンサーが嘆いていた。現況ではおよそ100万人の志願者が集まったと報じているが、それも嘘だろう。新たな志願者を引き込むために、人数を多めに報じているのだ。正義感がはたらくように。
番組の最後で、アナウンサーは国民に『勇気ある選択』を求めた。涙ながらに。そして彼女の端正な口から赤黒い血がこぼれた。舌を噛み切ったのだ。
俺はリモコンでテレビの電源を落とした。
俺は二階に向かって呼びかけた。
「リカ! 起きろ、朝ごはんを食べよう」
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モラトリアムはあっさりと過ぎ去った。
あと一時間で期限がくる。
居間でリカと二人話していると、壁をすり抜けるようにして”神”が現れた。
「やあ」とやつは言った。「もうすぐ滅ぼしちゃうけど心の準備はできたかい?」
俺はその質問には答えず、リカのほうを見た。彼女は異形の神にもたいした驚きをあらわさなかった。いつもどおりの瞬きをくりかえしている。
「そういう話は娘の前でしたくない」と俺は言った。
“神”は頭骨を左側にゆっくりとかしげた。
「ふうむ」と真意の読めないうなり声をあげた。「そうだね、ごめん。ともあれ、あと一時間だからね」
「わかってる」
次の瞬間、やつの姿はすでに消えていた。薄い霧の膜が風に飛ばされるような感じで、もはやそこにはなにも残っていなかった。ぽっかりとした空気の空洞らしいものができているだけだ。
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いっしょにベッドへ入り、リカを強く抱きしめた。
あまりにも、小さい。か細い。その身体を抱きしめた。彼女はほどなくして眠った。俺はなんだかおかしくなって少しだけ笑った。
あと三十分だった。電気の供給は切れた。燭台の上の灯が揺れている。
俺も眠ることにした。
世界の終りなんて見たくなかった。
このまま、目を閉じてしまえば、すべてが終わってくれる。
俺は目を閉じた。
心は穏やかに揺れていた。
深く、眠った。
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目を覚ました。
俺はその事実の異常性を遅れて理解した。
おかしい。本来ならば目を覚ますはずがないのだ。人類は滅び、世界は終りを迎え、同時に俺も死んだはずなのだから。
隣にリカの姿はなかった。俺は急いでベッドを降り、一階に降りた。外に出た。異様な静けさがそこにはあった。有無をいわさぬ、ある意味で暴力的な静けさだ。草や土、雲までもがすべてつくりもののように見えた。出来の悪い張りぼてのようだ。それだけではない。目の前を漂う空気にすら、哀しいほどの白々しさが感じられた。あらゆるものの手応えがない。俺の目はただしく空間を捉えているのか。俺はただしく呼吸をできているのだろうか。血の流れは? シナプスの信号は?
応答はなかった。
地球を地球たらしめていたものが、そっくりそのままくり抜かれてしまったような光景が、目の前に広がっている。
世界はたしかに終わったのだ。
居間に戻りテレビのリモコンをとった。だが、当然そこにはなにも映らない。電源さえ入らない。俺はしばらく呆然としていた。ソファに座り、なにを考えるでもなくフローリングの継ぎ目を眺めていた。
そしてリカを探しはじめた。家のなかをすみずみまで調べる。ベッドの下。クローゼット。シャワールーム。家にいないことがわかると、湖のまわりや森のなかを調べた。どこにもいなかった。俺は腹のなかにごわごわした異物をねじ込まれたような感覚を得た。それは俺を内側から圧迫しつづけた。また森のなかをしばらくさまよい、大樹の根元に嘔吐した。胃液だけしか出てこなかった。
俺はそこで自分がやるべきことを直観した。体液の逆流の苦しみを味わいながら、その気づきに感謝した。俺は森を抜け、自宅に戻った。
“神”が俺を待っていた。
「人類は必要な生贄を用意できなかった」と玄関口に立っていた”神”はそう言った。「最終的に何人が集まったと思う?」
俺は答えなかった。
「128万439人」とやつは続けた。「ぜんぜん足りない。最後にはね、国民をむりやり犠牲者に立候補させようと、各首脳がずいぶんな醜態をさらしていた。国家間で戦争みたいなことさえしちゃう始末だ。ロシアに爆弾が落ちたのは知ってるかい?」
「俺は生きているのか?」向こうからの質問を無視して、俺は訊いた。
「見てのとおり」とやつは応えた。「不服かい?」
「なぜ生かした。さっさと殺せ」
“神”はため息をついた。
「キミのことは好きなんだ。『E・T』を貸してくれたし、なにより、キミは興味深い一面を備えている。もうちょっと見ていたいなと思ったんだよ。だからキミだけ残しておいた。ちなみにキミ以外の人間はみんな死んでる。キミはたいして悲しくないだろう、そのことについて?」
「悲しくはない」と俺は答えた。
「少しは誇りに思ってもいいんじゃないかな。キミは最後の人類だ」
「俺は今から死ぬ。命を断つ」
“神”は困ったような表情を見せた。いくらか、やつの感情が読み取れるようになってきた。やつはしばらくなにかを考えたのち、ゆっくりと訊いてきた。
「せっかく生かしておいてあげたのに?」
「いらない配慮だ」俺は歪にゆがんだ頭骨を見上げる。「このまま生きていても、なんの意味もない。俺の世界はもう終わったんだ」
「キミがこの世界にそこまで愛着を持っていたとは思わなかった。ワタシの計画についてまったく抵抗を示してこなかったから……」
「俺の世界とは、娘の存在のことだ」
言いながら、俺は家のなかには入っていく。
「あいつがいないのならば、俺には生きていく理由がない。ただのひとつも」
キッチンの引き出しを開け、自動小銃を取り出す。
“神”はその様子をじっと眺めていた。俺が弾をこめているあいだ、ぴくりとも動かなかった。だが、やがてその静かな停止の反動のような形で、小刻みに身体を震わせ、おかしそうに声をあげはじめた。不気味な、くぐもった音の震えが部屋に満ちた。あらゆるものの輪郭が震え、たちまち溶け出してしまうような声だ。
「なにがおかしい」と俺は訊いた。
「キミは本当に興味深い生物だね」とやつは言った。
俺は拳銃をテーブルに置く。発射準備は整い、トリガーを引くだけの状態になっている。
「興味深いだと?」俺は訊く。
「うん」と”神”は応える。依然として、愉しそうに笑っている。
「なにがだ」
「キミは僕に腹を立てているね。キミだけを生かし、娘さんはほかの人間たちと同じくあっさりと消してしまったことにたいして」
俺はやつを睨みつける。返事はしない。
「だけどね」とやつはつづける。「こんなことを言ってしまうのは酷かもしれない。だけど言うよ。いいかい、キミには最初から娘なんていやしない。この家にはキミひとりしかいない。キミはたったひとりで、これまで生きてきたんだ」
俺は一度置いた拳銃を再度手に取る。
「だからね、言い訳がましくなるかもしれないけれど、ワタシはキミの娘を消してはいないんだよ。だってそもそも存在しないものだからね」
銃口を口内に押し込む。脳の中心が銃弾の軌道上に入るように意識する。
「そう考えると、わかるだろう? キミの娘を消したのはキミ自身なんだ。キミはわかってて……」
やつの言葉は最後まで聞こえなかった。
俺の眼前で閃光が爆ぜた。不思議と、火薬の匂いだけが感じられた。閃光の後には深い暗闇が拡がっていた。俺を包み込んだ。俺は安堵した。
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おかしい。
俺は自宅に戻っていた。手には拳銃が握られている。俺は迷わずそれを眉間に押し付ける。そして引き金を引く。弾は発射された。凄まじい轟音とともに。頭の中心に明らかな空洞ができる。だが、俺は生きていた。
“神”が立っていた。
「ワタシは神だから」とやつは言った。「どんなことだって実現できる。キミが想像できることも、できないことも」
俺にはやつの言っている意味がわからなかった。ただ、口をあんぐりと開けて、やつを見上げた。
「キミは死ねないよ。そう設定した。キミがこれからどうなっていくのか、すごく興味が沸いたんだ。だれとも共感を得られないまま生きてきて、大人になってから想像上の子供をつくった。そしてそれを消してしまった。そんな男が、ほかに人間のいなくなった地球で、いったいどうなるのか」
「……ふざけるな」やっとの思いで出た一言はそれだった。
「新生物を地球に移動させるのは百年くらい遅らせても問題ないからね。それまではキミがこの星の王だよ」
なにかを言いたかった。だが、もう声が出てこなかった。冷たい汗が身体の各所から噴出していた。吐き気をおぼえた。
「悪く思わないでよ。ワタシは意地悪なんだ。そして全能なんだ。キミにはどうしようもない。最初からわかっていただろう」
俺の身体は痙攣をはじめた。視界がかすみはじめた。
「さ、『E・T』みたいに別れよう」やつはそう言って、俺のほうへ近寄ってきた。そして、目の前にかがみ込み、言った。
「いい子でね」
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俺は歩いている。
周りには砂ばかり。それ以外にはなにもない。砂。両足を引き込もうとする砂、風に乗って身体中に打ちつける砂、まとわりつき、皮膚を浸食しようとする砂。
俺は歩いている。
周りには砂しかない。