noteと公共性

たとえば、1年でnoteの記事を100個書いたとして、高クオリティの記事が5個しかないのと
1年で記事を5個しか書いてないけど、5個全ての記事が高クオリティなのと、果たしてどちらの方が良いか?

(1年で100個の記事を書いて、100個とも高クオリティのパターンは、私にとって現実的ではないので省きます。)

これは、noteのために私がいるのか、私のためにnoteが在るのかによって、答えは変わってくる。

noteのために私がいるならーー高クオリティの記事を書くために私がいるなら、100個書こうが200個書こうが、良い記事でなければ意味がない。

でも、noteのために私がいるのだとは思えない。これは仕事ではないのだから。

私のためにnoteが在る。
私は言葉を整理し、表現する。それを公開して、誰かの目にとまったら嬉しいなと思う。その気持ちがモチベーションになる。生活がいつもより少し充実する。
クオリティは低くても、100個の記事には価値がある。私にとって価値があれば、それで良い。


さて、もう少し深く考えてみる。

noteを始めて1ヶ月経過したが、今まで1日と欠かさずに投稿を続けてきた。
正直、クオリティの低い日が多い。少なくとも自分にとって納得のいく日は少ない。

こんな記事をインターネットという公共の場に排出してしまって良いのかと葛藤する。
こんな記事しか書けないなら、今日は投稿しない方が良いのではないかと。

先ほどと同じように考えてみよう。
人はインターネットのためにいるのではない。人のためにインターネットが在る。
明白だ。インターネットとは、人が人のために作ったものだ。
だが、私だけのものではない。皆のための、公共のものだ。
ここに難しさがある。

インターネットという海の中に、私の記事がゴミとして浮かんでいる。
広大な海の中のたった一つのゴミなど、誰も気にしないという考えもあるが、そのたった一つのゴミが、皆の海を確かに荒らしているという罪悪感もある。
たとえ、私のようにゴミを排出している人がたくさんいるとしても。

この考え方は、noteやインターネット以前に、私が社会と繋がりを持つことへのハードルになっている。

人は、社会のためだけに生きているわけではない。
社会貢献は大事だけど、そのためだけに生きているのではない。
でも、かと言って、社会は自分のためだけに在るのではない。人が社会を作るのは、自分のためであり、同時に皆のためでもある。

私なんかが、社会と繋がって良いのか。こんな私が、一体社会の中で何の役割を果たせるのか。自分という存在が妙に恥ずかしい。

これは、私の内面に焦点を絞れば、単に自己評価が低すぎるという話でしかない。
しかし、公共性という観点で考えると、人はどこまでいっても、「自分のためだけの世界」では生きられないということだ。


noteに話を戻そう。

私なんかがnoteを書いて良いのか。こんな記事が一体何の役に立つのか。自分の記事が妙に恥ずかしい。

noteのために私がいるのではなく、私のためにnoteが在るのだから、こんなことは気にしなくて良い。
ーー本当にそう言い切れるだろうか。

むしろこのように気にすることは、健全な反応と言える。

たとえ、「ビュー数を増やしたい」とか「好きの数を増やしたい」という欲求が全くなくて、自己満足のために書いているのだとしても。
公共の場にいる以上、皆の海を自分が荒らしはしないかという懸念を、ほんの少しも持たないのは難しい。
公共の場には、ハードルがあるのだ。

当然、noteのためだけに私がいるのではない。
しかし、公共の場での自分の役割ーーないしは価値を、薄っすらとでも想起せずにはいられない。
この記事にはどのような価値があるか、どのような役割が担えるのか(いいや、何の役割も担えない!)という葛藤から、完全に逃げ切ることはできない。

こういう気持ちに耐えながら、100個の記事を生み出していくしかないのだ。
そして、書くことの楽しさというのは、そんな葛藤に掻き消されたりはしない。そう信じたい。


(とは言え、インターネットなんて、そもそも社会の中のゴミの掃き溜めという価値もあるでしょうから、気にし過ぎるのも病的な気がしますが。)

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