serial experiments lainの持つゲーム性と、ゲームにおける能動性/受動性
皆さまは
serial experiments lain
というゲームをご存知だろうか。
PS1のゲームである。
メディアミックス展開されていたので、アニメもある。
近頃は25周年を記念して、ポップアップストアが開催されたり、VRCHATで 「WIRED展」なるものが行われるなど、再び注目を集めている。
ゲームとしてはけっこうマニアック…だと思うのだけれど、今はむしろいろいろと有名かもしれない
まず、中古価格が高い。
メルカリ等で見てみるとわかるが、相場7〜8万前後で取引されている。
近頃のゲーム価格は上がっているが、それでも新品のPS5のソフトで1万とかである。
中古のもので8倍と考えてもらえると、その異常な高さがわかっていただけるだろう。
なぜ高いのか。
もともとの弾数が少ないから?
インバウンドの人たちが買い求めるから?
詳しいことは僕にはわからない。
それに、ここ1、2年くらいで相場はさらに上がっている。
僕はこのゲームを4年ほど前にヤフオクで購入したのだが、その時は4〜5万円ほどが相場であった。
現在は倍近くにもなっている。
コレクターの手に渡るなどして市場に出回る数が少なくなっていくのであれば、これからも相場は上がり続けるのかもしれない。
投機対象にすらなっているのではないか…とも思える。
ゲームの内容について話そう。
この先の文章ではlainのネタバレがある程度含まれている。
情報を一切入れずにいつかプレイしたい!と考えている読者諸氏は読むのを中断して、今すぐヤフオクでlainを落札していただきたい。
やりたいと思うのであれば、いつかではなく今すぐやるべきである。
今後も相場が上がっていく可能性を考えると尚のこと。
閑話休題。
このゲーム、何もするゲームか。
インターネット空間?のような場所に散らばる音声データや映像データを再生して集めていくゲームである。
データの内容は、岩倉玲音という少女とカウンセラーのトウコ先生との会話であったり、玲音の日記的な独白であったり、そんな感じである。
最初は普通のカウンセリングであったが、次第に不穏な内容が混じるようになっていったり…
そしてそれをプレイヤー自身が再生する。
ただそれだけである。
いちおう、最初から全てのデータにアクセスできるわけではなくて、解放されているものを再生していくと少しずつアクセスできるファイルが増えていく。
そして、アクセスできるデータは時系列がバラバラだったりするので、プレイヤーが考えて情報を取捨選択していく必要がある。
プレイヤーがゲームに干渉できるのは、このくらいである。
データはかなり膨大であるから、全て再生するのはけっこう時間を使うと思う。
これは果たしてゲームと呼べるのか…音声と映像を見る/聴くだけのひたすらに受動的な作業ではないか…そう思われる方もいるかもしれない。
ゲームとは能動的なメディアであると、僕は常々思っている。
自分でキャラクターを動かす、行動を選択する、物語の展開を変える…無論それは開発者の手の範囲内であるけれども、プレイヤーが自分でそれを選択する=ゲームをプレイする点に能動性がある。
自分でプレイせずに、たとえばプレイ動画を見ることで、ゲームの物語や内容を知る、それ自体は現代でもはや一般的なのかもしれないけれど、そこからは能動的な楽しみが欠落しているのではないか。
ゲームには能動的な楽しみと、受動的な楽しみがある。
前者がキャラクターを動かしてプレイヤーが自らゲームに干渉するなど、自らプレイすることで得られるものであるとするならば、画面から流れてくるゲームの物語や音楽などを受け止めるのが後者と言えるだろう。
この2つは5:5ではないし、ゲームによって比率はまちまちであると思うけれど、見るだけでプレイしない、となると、受動的な楽しみは享受できても、能動的な楽しみの方がまるっと抜け落ちてしまうのではないかと、僕は危惧している。
危惧している、というのは少し大げさな表現だったかもしれない。
余計なお世話であることは承知しているが、ややもったいないのではないかな、と思えてしまうのである。
とは言ったものの、僕だって、子供の頃は放課後に友達の家に集まって、ゲームの得意な◯◯君のプレイをみんなで見て楽しんでいた記憶がある。
みんなで感想を言い合ったり共有したり…ゲームプレイ動画や実況動画というのは、先ほど話したゲームそのものが持つ能動性/受動性の楽しさとは全く別のところにその楽しさがあるのだろうと理解している。
つまるところ、これらゲームの外にある楽しさ…かなり広い言葉ではあるけれど、そのようなものがあるとした場合、ゲームをプレイしただけではこの種類の楽しさを味わえない、というのであれば、それだって見方によってはもったいないということになるのではないか。
これが副次的な楽しさであって、ゲーム自体が持つ本質的な楽しさという観点からは乖離していると思わなくもないが、1つのゲームの楽しみ方としては間違ってはいないのではないか。
結局、ゲームをどのような楽しみ方で、どこまで楽しめるか、なんて人それぞれなのではないか…身も蓋もない結論であるが、僕はそう思ってしまう。
なぜこのタイミングで、長々とゲームにおける能動性/受動性の話をしたのか。
serial experiments lainというゲームにおける能動性について話したかったからである。
先ほど話した通り、lainにおいてプレイヤーにできることは、基本的にはデータの再生のみ。
これだけならDVDでいいじゃん、と。
ゲームである必要無いじゃないの、と思われるかもしれない。
プレイヤーが再生するデータを選ぶ。
得られる情報を取捨選択し、玲音の思考に触れ、彼女に何が起こったのか推測していく。
ここにプレイヤーの介在があると僕は思う。
データを再生しそれを受容するまでは受動的である。
しかしその後の、得られた情報を組み立ててプレイヤーの頭の中で考察する、という過程は非常に能動的であると思う。
というか、この過程を経ることなく進めると、このゲームはほとんど楽しめないかもしれない。
そしてここではあまり触れないけれど、この考察する、というのだってすでにある種ゲームの外にある楽しみであるように感じられる。
なぜならゲーム側からそれを要求されることがないのだから。
ゲーム側に干渉して考察を入力する術はないのだから。
ゲームを最後までプレイするという点で考えれば、この過程にはあまり意味がない。
プレイヤーが自発的に、自らの意思で、そうすることを選ぶのだ。
そしてここに、このゲームの楽しみがあると、僕は思う。
ゲームのラストにおいて、玲音は肉体を失う。
肉体を失った玲音はどこに行くのか、考察しながら、玲音について考えを巡らせたプレイヤーであれば、想像に難くない。
データを再生することで玲音の過去を追体験し、玲音の記憶や考え方を脳に植え付けられたプレイヤーの頭の中にだって、玲音は存在していることになる。
岩倉玲音は偏在する。
ゲームとして、自分で選択する、自分で考察するというのが、脳内に玲音をインストールするプロセスに組み込まれている。
であればこそ、この作品はゲームでなければならないのである。
このゲームを自分で考え、最後までプレイした場合、頭の片隅に常に玲音が同居することとなる。
8万円で脳内に玲音を構築することができる。
これを高いと取るか、安いと取るか、諸氏の判断に委ねる。
これは個人的な意見であるが、玲音のキャラデザは素晴らしいと思う。
四半世紀前ゲームであるが、今見ても完成されている。
かわいい。
現在、グッドスマイルカンパニーで 「ねんどろいど 岩倉玲音」の予約が受付中である。
(アニメ版であるが)
受付期間は10/16までであるため、欲しい方はお早めに確認されたし。
無論、僕は予約した。
以上、宣伝を持って、駄文の締めくくりとしたい。
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