【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第10話 七転八倒編(5)
【GTO】
ひょんな事から「登校支援員」となって10年目を迎えていたフリムン。
当時、教育界でも時の人となっていた彼に、付いたニックネームは何と「GTO」。もちろん、仕事で関わった子どもたちが勝手に付けたニックネームである。
これは当時大ヒットしていた漫画のタイトルで、高視聴率を叩き出したテレビドラマの主人公、鬼塚英吉こと「グレートティーチャー鬼塚」の略である。
そのニックネームを付けた子どもたちに理由を尋ねると、何とこんな答えが返ってきた。
「はっさ、グレートティーチャー鬼ゾりの略さw」
なんてナイスなネーミングなんだと感心したフリムンは、以後、その名前で通すことにした(笑)
とりあえず剃り込みが分からなくなるスキンヘッドになるまでは(テヘッ♡)
こうして空手界のみならず、教育界でもその名を轟かせ始めたフリムン。
石垣島の青少年健全育成には欠かせない存在となっていった。
色んな意味で…(-_-;)
【信頼関係】
登校支援という特殊な仕事にとって、最も大切なのは信頼関係である。
毎日のように赤の他人が家にあがりこみ、言い方は悪いが我が子を学校まで引きずっていくのである。
信頼無くしてできる仕事ではない。
よって本人はもちろん、保護者との繋がりをフリムンは大切にしていた。
中には、家族同然に迎え入れてくれる家庭もあるが、そうなるまで根気強く通い続け、そして励まし続けなければならない。
そうして努力して得た信頼は、よっぽどの事が無い限り切れる事はないが、時にその「よっぽど」が起きたりするから油断禁物である。
そうならない為に、彼は信頼関係を築く際に莫大なエネルギーを消費するようにしていた。
そうして苦労して得た信頼だからこそ、絶対に切らさないようその後も努力するからである。
これは、空手の世界でも言えることだ。
道場でも、相手にするのは生身の人間である。
信頼して子どもを預けている道場や学校に、我が子を蔑ろにされたら誰だって不快に思うであろう。
ただ、登校支援でも道場での指導でも、長年やっていれば失敗の一つや二つは当然ある。
そのたった一度の失敗で修復不可能にならないよう、日頃からどれだけ生徒や保護者と関わるか。
その差は、限りなく大きい。
良い教師、良い指導員、そしてそうでないと思われている教師や指導員。
これは他人が判断する事なので一概には言えないが、やはり良いも悪いも必ず理由がある。
信頼して貰える理由。信頼して貰えない理由を自ら探し出し、生徒や保護者との関係を良好なものにするのもまた仕事だと彼は考えていた。
石垣島で道場を興し、これだけの実績を積み上げるのは決して簡単な事ではない。
彼の指導力や生徒の能力だけでは絶対にここまで来る事はできなかったであろう。
彼が常日頃から大切にしている保護者との信頼関係が良好だったからこそ、ここまでの戦績を収める事ができたのである。
それが、登校支援という世界でも生きているのだ。
この「道場責任者」と「登校支援員」という二つの仕事を掛け持ちしながら、フリムンは更に人としての高みを目指す努力を積み重ねていった。
もちろん、誰からも信頼される指導者となれるように。
【極真八重山20周年記念大会】
2014年6月15日(日)石垣市総合体育館メインアリーナにて開催された「第20回極真空手八重山地区大会」。
紆余曲折を経て辿り着いた20年間の集大成。フリムンは己の全てを掛け、成功に向け奔走した。
全国から師範方や強豪選手を招聘。多くの観客が見守る中、盛大に執り行われた記念大会。
過去最高の大会となったのは言うまでもない。
更に、同日ANAインターコンチネンタルホテルにて開催された極真八重山20周年記念祝賀会。
コチラの方も感動に包まれながら大盛況に終わり、大きな節目の年を乗り越えたフリムン。
20年前には想像も付かなかった目まぐるしい日々を経て、空手家としても人としても大きく成長したのであった。
こうして祝賀会も大盛況に終わり、更に勢いに乗った石垣道場は会員数も爆上がり。常に90名前後の生徒数を有し、最高で99名にまで達した(惜しいっ)
フリムン48歳の年である。
【三桁】
会員数も三桁に近づいた頃、フリムンの体重もまた三桁に近づいていた。
(なんでやねんw)
常に95㎏前後を行ったり来たりしていた頃、突如ある“企画”を思い付いた。題して「人生一度でいいから100㎏を超えてみたいプロジェクト」である(笑)
しかし、人体というのは不思議なもので、ある一定のところまで到達すると、元に戻そうとする習性がある。
フリムンの場合は、97㎏がその限界点であった。
そこから中々増えないことに業を煮やしたフリムンは、出来るだけ運動を控え、吐く寸前まで食べるという暴挙に打って出た。
力士たちの食事法…減量とは真逆の方法だ。
その結果…冷たい氷で頭を冷やさないとやってられないほど、顔がパンパンに腫れあがってしまったフリムン(笑)
やはり、人間には適正体重というものが存在するという事を、自らの肉体を犠牲にして思い知った次第である。
とにかく幼い頃から好奇心の塊で、何でも自分で経験しなきゃ気が済まない性質(たち)であったフリムン。還暦を前にした今でも、そのチャレンジ精神が健在であるのは言うまでもない。
ちなみに証拠写真を撮った翌日より体重は激減。あっという間に90㎏にまで戻った。
正に形状記憶合筋とはこの事である(笑)
次回予告
次回、七転八倒編完結!最後の勝負に打って出たフリムンの運命やいかに!
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この記事を書いた人
田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。
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