いつもより優しくなれる日
「ちょっと、ママね、今イライラしているから、あっちに行ってて」
昔には考えられないほどの感情の高ぶりを感じながら、でもできるだけ声のトーンを抑えて、きっぱりと娘に言い放つ。
娘は寂しそうな顔をしながら遠くへ行き、扉からそっとこちらを窺っている。
余裕がない。
次女が生まれて、更に慌ただしい日々。
長女が大きくなって、少し楽になったと思ったら、またお世話だらけの日々。
実家が遠い。
夫がほとんど家にいない。
頼れる人が近くにいない。
心細さと不安で、些細なことでイライラする日々。
そんな自分にもイライラして、娘たちを可愛いと思えなくて、そんな自分が情けなくて。
負のループにどんどん巻き込まれていっているそんな自分にも気付けないぐらい、毎日いっぱいいっぱいだった。
そんなときに一つだけ救いになったことがある。
娘が通っている森のようちえんの仲間たち。
普段はプライベートで遊んだりすることはなく、表面的にはさっぱりして見えるのかもしれない関係性。
基本は子どもの送り迎えのタイミングでしか話す機会がない。
そんな僅かな時間だけど、苦しかったときどれ程救われたか、言葉では言い尽くせない。
仲間と話す時間、それは、あそこのケーキが美味しいとか表面的な話ではなく、
辛い、苦しい、喜び、嬉しい...
そんな感情的な深い部分を語り合える時間が、私に頑張る力を与えてくれた。
私がお世話になっている森のようちえんは、子育て歴が十何年のお母さんや、いわゆる高齢出産といわれる年齢でお母さんになった人、教育関係のお仕事に携わっていたお母さん、子育て歴数年のお母さんなどがいる。
そのお母さんたちみんなで子どもの育ちを見守りたいという思いで、自主保育という形をとっている。
このお母さんたち、バックグラウンドは異なれど、みんな共通しているのは「腹をくくっている」ということ。
私は私で、子どもと暮らしていく。
そのお母さんたちは、いかに子どもたちと自分、そして家族が心地よく過ごせるか、日々着地点を探している。
着地点を探す時にポイントとなるのは、
無いものはない、と割り切り、すでにあるものに目を向ける。
そのベースの上で、これがあったらもっと家族にとって心地いいよね、というものを加えていく。
当たり前のことのようで真新しさは感じにくいこの言葉。
けれど、お母さんたちと、出来事や思い、考えを交わすうち、
急にこの言葉の意味するところが肚に落ち、目の覚めるような気付きだった。
負のループ中、
実家が近い人と比べて、遠いから助けてもらえなくて不満を持つ自分。
夫が育児に参加する人と比べて、全然やらないと不満を持つ自分。
甘え上手で何でも手伝ってもらえる人と比べて、何も言えずに不甲斐ない自分。
いつも笑顔のお母さんでいたいのに、イライラして残念な自分。
そんな自分の理想と実際の生活を比べて、あれもないこれもないとマイナス採点ばかり。
そんな自分は可愛そうで救いようがない、と勝手に被害者のレッテルを貼り付けて、思考停止していた。
思考停止したら、現実を変えていく力を自分はもっているということに気が付けず、無い物ねだりをし続ける。
そんな負のループをじっくりと味わったからこそ、
あるものに目を向けることの大切さが今はハッキリとわかるし、
軸がぶれて無い物ねだりになったときに軌道修正しやすくなった。
ありがたい経験だったと今では思う。
その経験を我が身を呈してさせてくれた娘には本当に感謝しかない。
最近、森のようちえんの仲間が、多分そのループにはまっている。
他のお母さんたちと、その人の状況や感情に思いを馳せながら話を重ねるうちに、自分の中に今回の大切な気付きがあった。
他のお母さんもみんな通ってきた道。
そしてそのお母さんも乗り越えられると信じているし、乗り越えるのを見守っている仲間たち。
よくがんばってるね、辛いよね、
お疲れさま、ありがとう、見守っているよ...
それぞれ色んな思いを伝えたくて、そのお母さんを代わる代わる抱きしめた昨日。
その場を共有し、私は心の底から温かさを感じて、心が緩んで涙が込み上げてきた。
そんな日、いつもより私は優しくなれる。
私の暮らしを応援してくださると嬉しいです。私の心地よいと思う世界に繋がるように循環させていきます。