いってきます おやすみ 娘とのハグ
hug。「ハグ」する。抱擁。
私にとっての「ハグ」
私にとって「ハグ」と言えば、たまにテレビの海外ホームドラマや洋画の中で見たことがあるものだった。
あとは、なぜか小学生の頃、何の影響だったのか、友達同士で「何十年ぶりの再会シーンを再現する」という遊びが流行って。
ちょっと離れた場所から、
「おぉ!ケニー!!!」
「ま、まさか…ジョニーなのか?!」
などと言って、お互いにスローモーション設定でゆっくりと駆け寄り、抱き合って再会を喜び噛み締め合う、というだけのことなのだが、それでよく、友達と「ハグ」していたと言えば、していた。
高校の頃、3週間だけ姉妹都市交流の一環としてホームステイをしたが、そのとき初めて、アメリカの生の「挨拶ハグ」を体験した。
自分の家庭で「ハグ」の習慣などなかった私にとって、それは、こっぱずかしさと嬉しさが同時にこみ上げる、そんな体験だった。
そんな私も親になり、娘を持った。
もちろん覚えていないだけで、私も乳幼児の頃は、父や母に「ハグ」されていただろう。
そんな記憶があってもなくても、赤ちゃんを前にすると、しかもそれが我が子ならなおさら、人間は「ハグ」したくなるものなんだな、そう感じた。
娘が乳児から幼児に変わり。
外出先で眠くなってしまったときや、具合の悪いとき。
嫌な目にあったとき、親子喧嘩をしたあとや叱ったあと、娘がやってしまったことを諭したりする場面。
娘の行動がありがたいな、すごいな、と思えた瞬間。
「ハグ」の機会もそういうとき限定に変化していく。
スキンシップの大切さという観点を意識して過ごしてはいたが、私が「ハグ」を意識して行っていたのは、上に挙げたような、娘が「心身どちらかが弱っているとき」と「すごいな」と思えるとき、ぐらいだった。
おやすみなさいのハグ
幼稚園年少さんぐらいまでの、寝かしつけとしての添い寝も、成長と共に、少しずつフェイドアウトし、年長さんも終わりになると「おやすみー」と言って、一人で先に寝るという形になった。
そのタイミングで。
「おやすみー」のときに、自然と娘が、私たち夫婦に順番に「ハグ」をしてくれるようになった。
「あれ、海外ドラマの家族みたいだな。」
「どこでそんな習慣を覚えたんだろう。」
私は、嬉しさと客観的な面白さ、その両方を同時に感じた。
今から考えると、娘は「一人で先に寝る」ということに、まだほんの少し不安があったのかもしれない。
周りには、暗い部屋が怖い、暗いから一人でトイレに行けない、そういう謎の恐怖心が出てくる子も出てくる、そんなお年頃ではあったが、娘は暗いところは全然怖くないようだったし、夜のトイレも普通に行けていた。
ただ、やっぱりどこか「全く最初から一人で寝る」ということに、物足りなさや心細さがあったのだろうな、と思う。
だから、その不安や心細さを埋めるために、彼女は寝る前の「ハグ」を自然と(たぶん無意識に)始めたのだと思う。
いってきますのハグ
娘は小学生になった。
幼稚園の頃、入園して初日のバス登園。
ママから離れるのを嫌がって泣く子がいる中、我が娘は全く私のほうを振り返りもせず、意気揚々とバスのステップを上がっていった。
そんな娘だった。
小学生の登校初日。
集団登校の途中、学期初め特有の大きな手荷物に自らつまづいて、娘は転んだらしいのだが、その翌日から、私がいないと、集団登校で歩いて学校に行けない状態になってしまった。
毎朝保護者が一人、集団登校に付き添うシステムであったが、私は当番など関係なく、しばらく毎日、学校の門までついて行くことになった。
クラス内や先生を含む学校自体が嫌なのではなく、行けば楽しく過ごしてくるようなのに、「集団登校すること」自体が苦痛のようだった。
4月、5月、6月。
どうしたものか、と考える日々だった。
門まで私と行けば、そこからは安心して教室に向かえる時期。
なぜか、教室まで行って先生に引き継がないと、私と離れられない日。
それでも、少しずつ目標を決めて、三歩進んで二歩下がるときがあっても、少しずつ娘はその目標を達成していった。
今週は門の手前までね。
今週は歩道橋の手前までね。
次は、この四つ角の手前までね。
そうして、夏休み前の7月には、それは、家のすぐ近くの曲がり角まで、になり、
「夏休み開けたら、お母さんなしで、みんなと行くよ!」
そう言えるところまで、娘は復活してくれた。
夏休み明けの登校初日。
夏休みという大きなお休みを挟んだこともあり、夏休み前のスモールステップを達成してきた自信もあり、みんなと行くぞ!という意気込みもあり、娘はどことなく張り切っているように見えた。
でも、必ず彼女は不安を抱えているはずだ。
そう思った。
家を出る前に、
「いってらっしゃい、久しぶりの学校、楽しんでおいで」
それだけ言って、「ハグ」をした。
娘は笑顔で登校し、笑顔で帰ってきた。
いろんな気持ちを連れてくるハグ
高学年になった今でも、いってきますの「ハグ」と、おやすみの「ハグ」は続いている。
反抗期をかじってきているお年頃ではあるが、この「ハグ」は自然となくならない。
だんだんと「ハグ」する娘の頭の位置が高くなり、
「あぁ、どんどんと成長していってしまうなぁ」
そんな嬉しさと寂しさを同時に噛みしめながら、私は毎日「ハグ」をする。
学年が上がると共に、娘の小さな不安や心細さの種類は変わっているだろう。
でも朝の「ハグ」によって、その何かに惑わされない心の基盤みたいなものが安定してくれている、と信じている。
たまに、おやすみのほうは、私がおざなりになってしまっていることがあるので、いけないな、と思う。
成長し、大きくなっていくからこそ、言葉だけではないスキンシップ、身体から無条件に安心できる「ハグ」を、もっと大切にしたいな、そう思う。
そして、この「ハグ」は、きっと娘のためだけではなく、一見それを与えている側のような私たち夫婦にとっても、きっと日々の心が安定する大切な一つの要素なのだと思う。
「嬉しさ」だけでなく、同時に「こっぱずかしさ」「面白さ」「寂しさ」、いつもなにか複合的な気持ちを連れてくる、不思議な「ハグ」。
これからも、そんな「ハグ」を楽しみながら、続けていこうと思う。