映画通がこぞって高評価する「バグダッド・カフェ」があまりにつまらなかった話。
今でも印象に残る映画がある。それが「バグダッド・カフェ」だ。なぜなら全編を通してみることができないほど退屈だったのに、素直につまらないと言えなかった自分の自信の無さに情けなさを感じるからだ。いまでもあの映画は全部通してみていない。
あれは大学生のころ。映画館に行かずともTSUTAYAで借りて好きなだけ映画が見れる、いい時代になったなぁと思っていたころ。VHSからDVDに切り替わりつつあるくらいの時代。月並みな学生だった私は、サークルとバイトくらいしかやることもなく、時間を持て余していた。ふと思った。いい映画を知っている大人の男になりたいと。そういう時代背景だったのだろう。意識高い系という言葉もなく、意識低いよりは高いほうがいいかなと思っていたし、商業主義に走りすぎていないものに価値を見出すみたいな概念に変なあこがれがあったのかもしれない。今思い返せばすべてはいい映画を知っていることで女性にもてるかもしれないという期待だけがあったような気がする。
いい映画をどう定義するべきなのか、よく考えていなかった。考えないほうがいいのかもしれないとも思っていた。ただ見て感じていいと思うかどうか。でもそうしたら、最終的に一番好きな映画はやっぱりBack to the futureシリーズで決まりだった。自分の個人的な好みはかなり大ヒットした代表的な映画ばかりだ。今はそれでいいと思える。むしろそれを恥ずかしげもなく自信をもって言えることがかっこいいと思える。でも当時の自分は、ミーハー超大作しか楽しめない自分を多少恥じながら、「あまり知られていない名作」みたいなものをもっと探さなければならないと思った。
「バクダッド・カフェ」に出会ったのは、そんな流れでミニシアター系のコーナーを攻めまくっていた時だった。(ミニシアターというジャンルが出来上がってることがそもそも商業的だ。)経緯はあまり覚えていないが、当時付き合っていた女性と映画の話になった時に、「バグダッドカフェいいよ!」と勧められたのだろう。もちろん見た。最高につまらなくて退屈だったので、おそらく後半は寝ていたのだろう。そして、かろうじて起きていた前半部分から推察するに、もう一度見るにはあまりに退屈すぎると判断して、全編を見ることなく私の中の評価は「たるい音楽、ねむい映像、曲が聞きたけりゃCDでどうぞ」ということになった。この映画の前評判は当時「音楽がいい」というのと「映像がきれい」というものだった。あれ、そういえばストーリーはどうでもいいのかな?という疑問とともに、これが自分にとってはクソ映画だなという確信があったものの、映画好きの多数派の評価と彼女の推薦という圧倒的な支持を前に自分のこの映画に対する評価を世間に発信することはなかった。
2021年の今、バグダッドカフェという映画が特段話題に上がることはなさそうである。ストーリーが特になく映像と音楽がいいだけなら、4Kテレビの売り場でサンプルとして流すくらいしか価値がないわけだ。スターウォーズはいまだに商業価値が高いし、バックトゥーザフューチャーだって2015年には、あの時描いた未来になっちゃいましたねと話題にはなった。本当に人気のドラマは10シーズンだって続く。そう考えると、今後の人生においてバグダッドカフェの歴史的価値を検証する必要が出てくる可能性はおそらく微塵もなさそうだ。
私はなにもバグダッドカフェが好きだという人に対して、意見したいわけでも、攻撃したいわけでもない。完全に悪意ゼロだ。ノーオフェンス。個人の意見は自由だ。人類は自分と違う意見を大いに受け入れ反対側の人間とも楽しく談笑できるように進化するべきだと思っている。だから私はバグダッドカフェがクソみたいに退屈だったと言いたいし、あれは私の青春で最高の映画だったという人ともいまなら意見交換できる気がする。それこそが人間の成長である。