「人生の意味をめぐる哲学」とはどんなものか ー分析哲学的視点からー
お世話になっております。まるです。
生きていれば多くの人が、特にこの記事にたどり着いた人のほぼ全員が、「人生の意味とは何か」という疑問を一度は思い浮かべたことがあるのではないでしょうか。
この壮大な問いについて、今まで多くの哲学者達が立ち向かい、考察を行ってきました。そして現在でも多くの哲学者がこの問いについての研究を続けています。
今回の記事では、この「人生の意味」をめぐる哲学とはどのようなものかを、特に分析哲学の視点から簡単にまとめて紹介したいと思います。
参考文献
今回の記事はこちらの本の内容を抜粋してまとめたものとなります。
この記事が扱う範囲
この本は人生の意味に関する近年の分析哲学的なアプローチを紹介したものである。
分析哲学とは、大ざっぱにいえば明晰さの追求と徹底的な論述を特徴とした現代哲学の総称である。
哲学にある程度精通している方は「人生の意味の哲学」というと、パスカル、ショーペンハウアー、ニーチェ、キルケゴール、ハイデガー、ヤスパール、サルトル、ボーヴォワール、ヴェイユなどによる「実存主義哲学」や、ベルクソン、ジンメル、ディルタイ、オルテガなどによる「生の哲学」を思い浮かべるかもしれないが、これらについてはこの本の対象とはしない。
特にこの記事は、この本の中でも特に自分が気になったトピックをまとめて紹介している。今回触れていないトピックについては、参考文献を直接読んでもらいたい。
人生の意味を考える前に
そもそも「人生の意味」について、考えなくて済むならそれに越したことはない。つまり「人生の意味とは何か」という問いは、生じないことが最も良い答えであるような問いなのかもしれない。
というのも、人生が現に望ましいときには、「人生は望ましいのか」という疑問は生じてこないのだから、この問いを考えてしまっている時点で、その人にとって人生は完璧に望ましいものではなくなっている可能性が高い。ならばこの問いは生じないに越したことはないだろう。
だからといって問いが生じるのを完全に防ぐことはできない。ただ、この問いを解決するには、「問いについて考える」ということ以外にも解決策があるかもしれない。
例えば、人生の意味について考えすぎて自分の悩みを悪化させてしまっているようであれば、一旦この問いを考えないように離れるのが良いかもしれない。
また、名言を読んだり、体を動かしたり、社会的に有意義な活動に参加したりといった方法で、この問いを解消できるかもしれない。
とはいえ、どうしてもこの問いについて考えたいのであれば、それはそれでいろいろなやり方があるし、この問いについて考えることには固有の意義が見いだせる。
例えば「人生の意味」の問いについて考えることで、自分の生をさまざまな側面から吟味し、その価値をさまざまな仕方で評価できるようになることは、重要な副産物の一つである。
人生の意味を考える方法論
「人生の意味」だけに限った話ではないかもしれないが、このような壮大で漠然とした問いについて考えるとき、最初にとることのできる方法としては以下の3通りの方法が考えられる。
典型例を考える
「人生の意味とは何か」を考える際に、実際に「意味のある人生」としてどのような典型例が挙げられるかを考えると見通しが良くなることがある。
例えば「意味のある人生」の典型例としては、マザー・テレサやマリー・キュリー、トルストイのような偉人の生が感覚的に思い浮かぶのではないか。
同様に「意味のない人生」を考えると、例えばひたすらビールを飲みながらお笑い番組を観ているだけの人生や、薬物を得るために売春に従事する薬物中毒者の人生は、先程の偉人の人生に比べると感覚的に意味が薄れているように感じられる人も多いと思われる。
上記のように典型例を挙げることは有効な方法ではあるものの、いくつか気をつけなければならない点もある。
「この人生よりあの人生の方がいっそう意味がある」というように人生に優劣をつけることは、ある生き方の意味を貶め、否定することにも繋がる。
誰かを典型例として挙げた時点で、結論があらかじめ決まってしまいかねないことがある。例えば上記の偉人たちを意味のある人生の典型例として挙げた際、その前提として「社会的に有意義な活動をする・真、善、美、の発展に貢献する」ということが置かれており、この時点で既に一定の方向づけがなされてしまっている。
「人生の意味」という言葉の定義を明確にする
「人生の意味」という言葉は多義的で不明瞭なので、言葉を検討して語義を区別するだけでもこの問いの見通しがかなり良くなる。
例えば「人生の意味」における「人生」という言葉は何を指しているのだろうか。
「人生の意味」について、「人はなぜ生きなければならないのか?」「生きることに本当に意味はあるのか?」というような人生全体の存在意義に関わる問いが考えられる。もっといえば「人類が地球上に出現したことに意味はあるのか?」というような規模の大きな問いも考えられる。この種の問いは「mening of life」と呼ばれる。
一方で「人生の意味」について「個人の人生を有意味にするものはいったい何なのか?」という問いも考えられる。この種の問いは「meaning in life」と呼ばれる。
同様に「人生の意味」における「意味」とはどのように言い換えることができるだろうか。大抵の場合、ここで使われている「意味」は「重要性」や「価値」という言葉に置き換えられることが多いだろう。
更に「重要」という言葉一つをとっても、「誰/何にとって」「何のために」重要なのか、ということに関して意味は多義的になる。以下はこの多義性の例である。
私の人生は社会にとって何のために重要なのか
私に人生は私にとって何のために重要なのか
私の人生はそもそも誰/何にとって重要なのか
誰であれ一人の人間の存在は、この宇宙にとって何のために重要なのか
また「人生の意味とは何か」という問いは、それが発される文脈によっては「意味」という言葉を使わずに言い換えることで、具体的な問題が分かることもある。以下はそのような具体的な問題の例である。
私は何を生きがいとして生きていけばよいのか
人生は何を成し遂げるためにあるのか
どのような人生であれば生きるに値するのか
賞賛や尊敬、自負に値する生き方とはどのようなものだろうか
私が他ならぬ私らしく生きるためにはどうすればよいのだろうか
上記のような「人生の意味」の多義性を考慮すると、この問いが指す具体的な問題によって適切な答えが変わることになる。
例えば「自分が生きる意味が分からない」と言う言葉が深刻な苦しみの表出・救いを求める歎願出会った場合は、もはや言葉で答えるのではなくやさしく抱擁するのが良いパターンすらある。
関連語との繋がりを調べる
例えば「人生の意味」と繋がりのありそうな言葉として「生きがい」「生きる理由」「幸福」「道徳的善さ」などが考えられる。
これらとの繋がりを調べるうちに、人生の意味にとって何が重要なのか、何が必須のものなのか、何はなくてもよいのか、などといったことが徐々に見えてくることがある。
人生の意味の主観説と客観説
近年盛んに議論されているのが、人生の意味は主観的に決まるのか、それとも客観的に決まるのかという問題である。この異なる立場をそれぞれ「人生の意味」における主観説、及び客観説と呼ぶ。
主観説とは、「その人が自分の人生に意味があると思った」という場合に「その人の人生には意味があった」とする立場である。
客観説とは、その人が自分の人生の今についてどう思おうが関係無しに、「その人の人生に意味があると客観的に思われる」場合に「その人の人生には意味があった」とする立場である。
主観説
主観説の立場では、他人から見て「意味がない」と思われるような行為であっても、本人にとって「意味がある」と思えるような行為であれば、そのような行為には価値がある。そして、そのような行為を続ける生も「意味のある人生」であるということになる。
主観説を支持する人が良く出す例として、世の中にどれほど大きな貢献をしたとしても、本人が自分の人生に「意味」を感じないなら、そのような人生には意味がない、と感じられるのではないか、という考えがある。
例えばある人が大きな医学的発見をして、多くの人の生命を救い、多くの人を病気から守った医学研究者だったとする。しかしその人が自分の人生に意味を見出すことができず、他の人生もあったのにと後悔しているなら、そのような人生は「意味がある」と言えないのではないか、と主観説では主張する。
一方で客観説の立場からは、主観説に対して以下のような例が提示されることがある。
先程触れた薬物を得るために売春に従事する薬物中毒者の人生について、もし本人が「自分の人生に意味がある」と思っているならば、その人の人生に意味はあったと言えるだろうか。もしどこか躊躇することがあったら、そこには「非生産的な人生や社会に何も寄与しない人生は、人生の意味が薄れる」といった客観的な価値に関する観点が含まれるのではないだろうか。
また地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の教祖「麻原彰晃」を例に考えてみる。麻原が「自分の人生には大きな意味があった」と言ったとしたら、主観説の立場からは彼の人生は有意味だったことになる。このことに少しでも納得できないことがあるならば、人生の意味に「道徳的価値」などの客観的な価値が関わるのかもしれない。
客観説
客観説では、人生の中で生み出されるものの価値、具体的には何らかの行為や成果の価値や、行為の結果の道徳的価値、科学的価値、美的価値等といった「客観的な価値」に人生の意味を見出そうとする。
例えば客観説に従った「意味のある生」の典型例としては、以下のような生が挙げられる。
真理に貢献する生:アインシュタインなど
善や正義に交換する生:マザー・テレサ、ネルソン・マンデラなど
芸術的価値のある作品を生み出す生:ピカソ、ベートーヴェン、ドストエフスキーなど
また客観説に分類される立場として「機能主義」と呼ばれるものがある。この立場では、行為の結果として社会を改善し、正義を実現していくような生が意味のある生だとされる。ここには「最大多数の最大幸福」を生み出すことを目指す功利主義も含まれる。
客観説の立場をとるにしても、必ずしも偉人のような生を生きることを目指さなくてもよい、という考え方もある。その場合、わずかでもよいので世界を改善することができているなら、そのような生も意味のある生だということになる。
客観説の立場を取れば、上述した「薬物中毒者の人生」や「麻原彰晃の人生」の例に対して一定の説得力を持つ説明ができそうである。しかし一方で客観説には以下のような問題点が存在する。
主観説の部分でも述べたが、客観的には意味のある人生であったとしても、主観的に意味のある人生と言えないのであれば、その人生に意味があると断言することは難しいように思える。
主観説においては内面的な「人生の意味」が重視されるため、自分が感じる価値が状況などによって人生の意味が左右されることが比較的少ないが、客観説は自分が行うことによって価値のある成果が生み出されるかどうかが運や状況に左右されやすい。つまり客観説を採用すると、人生の意味が運命や環境等の個人が抗えないものによってある程度決まってしまうことを受け入れなければならない。
客観説において時間的・宇宙的なスケールを大きくすると、自分が行っていることに意味を感じられなくなる、という問題がある。
自分がどれだけ大きなことを成し遂げても、一億年もすれば人類も滅びているだろう。また広大な宇宙の中では自分の生み出した成果はあまりにちっぽけであり、何の「意味」もないも感じられてしまうかもしれない。
ハイブリッド説
主観的要素と客観的要素の両方を考慮した立場として、「人生の意味は主観的魅力や価値と客観的魅力や価値が合致する時に生じる」とするハイブリッド説がある。
ハイブリッド説では、ある行為に客観的な価値があるだけでは人生の意味は生じないし、本人がそれに対して主観な満足を感じなければ人生の意味は生じない、ということでもある。
著者の一人である蔵田氏は、上述した主観論と客観論のそれぞれの短所を補うことができるハイブリッド説は、説得力のあるものと言って良いだろう、と述べている。
自分自身の人生の意味
独在的な意味の層について
上述した主観説は「その人が自分の人生に意味があると思った」という場合にその人生を肯定するという立場だったが、この十分条件となる「自分の人生に意味があると思った」という時はどのような時なのか。つまり「その人自身にとって、その人自身の人生の意味とは何なのか」という問いが出てくる。
そもそもこの本を手に取った大半の人がこの問いに対して興味を持っているのではないか。
著者の森岡氏はこの点を考慮して、人生の意味を考える場合は、今まで議論した「主観的な意味の層」と「客観的な意味の層」に加えて、上述した問いを取り扱う「独在的な意味の層」という第三の視点を取り入れて、人生の意味はこの三層から構成される、という案を提唱している。
この三層の意味は以下のように整理できると思われる(記事執筆者の解釈)
主観的な意味の層:
『一般的に』ある人の人生の意味は、『その人にとって』意味があれば、意味があると見なす。客観的な意味の層:
『一般的に』ある人の人生の意味は、『社会にとって』意味があれば、意味があると見なす。独在的な意味の層:
『自分の』人生の意味は、『自分にとって』意味があれば、意味があると見なす。
つまり「主観的な意味の層」と「客観的な意味の層」では自分からみた第三者の人生の意味について論じているのに対し、「独在的な意味の層」では自分にとっての人生の意味を論じている。言い換えれば「独在的な意味の層」は「自分がずっと抱えてきた非常に個人的な人生の問題」を主題としている。
独在的な意味の層は「人生の意味の哲学」には必要不可欠であるように思えるものの、大学の学問の世界では主観説や客観説、ハイブリット説の研究に比べて、独在的な意味の層の研究は現状ほとんど行われていない。
独在的な意味の層について哲学的に(=学問的に)掘り下げることは非常に困難な点が存在する。以下でその難しさについて述べていく。
独在的な意味の層に関する哲学の難しさ
そもそもある問題を論じるためには「論じられている事柄が複数のひとで共有し合える」というコミュニケーションの前提が必要となる。
主観論や客観論では、『一般的な』人生の意味について論じることで、この前提を満たしていた。
しかし、独在的な次元において自分自身の人生の意味を考えるときには、一人ひとりに対して「世界全体が全く異なる仕方で現れる」という自体が生じうる。つまり上記の前提が崩れることとなる。
その結果、独在的な人生の意味に関する問題は自分以外の誰もそれとして向き合うことができず、最終的に自分で対処せざるを得ない。
また同様の理由で、もし自分の人生の意味についての問題に解決や解消が得られた場合であっても、それらを他者に伝えることができない。それらを伝えようと言葉を紡いだとしても、ほぼ確実に自分とは違う仕方で理解されることになる。
「他人の言っていることがことごとく納得できない、腑に落ちない」と感じることは当然である。なぜなら、自分自身の生きる意味に関する問題への向き合い方が誠実になればなるほど、他人の言葉の役に立たなさが自覚されるからである。
結局のところ、自分自身の人生の意味への問題へ向き合うことは本質的に孤独な営みである、ということになる。
「人生の意味の哲学」の意味
独在的な人生の意味、つまり「自分自身の人生の自分自身にとっての意味」に関する問いは、すべての出発点となる根源的な問いであるし、最終的には再びこの地点へ戻って来るような問いでもある。
と同時に、自分にとっての人生の意味を自分ひとりの直感だけで突き進んでいくのではなく、きちんと俯瞰して考えるためには、「そもそも人生とはなんなのだろう?」といった問いや「意味とは何のことだろう?」といった問いそれ自体についても、哲学的に考えを深めていかなくてはならない。この本はそのような哲学的・学問的なアプローチを提供するための本であった。
人生の意味の哲学を進めていくためには、自分にとって人生の意味とは何なのかという根源的な問いと、人生の意味の本質に向かってどこまでも学問的に迫っていくアプローチの両方が大切となる。言い換えれば人生の意味の哲学を行なっていくことと、自分自身の人生を実際に生きていくことは、ぴったりと密着して離れないのであり、著者の森岡氏に言わせればまさにそのことが人生の意味の哲学の最大の面白さである。
おわりに
以上、「人生の意味」をめぐる哲学についての紹介を行ないました。
今回の記事は参考文献の内容を抜粋してまとめているため、ぜひお時間があれば直接参考文献も読んでみてください。
また今回の記事に関連して、以前に幸福に関する心理学の研究動向をまとめた記事も書いています。こちらも合わせてご覧いただけたらと思います。
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