逃げ山
山梨県某所の昔話である。
ある所に弥七という男が居た。
良い年になっても嫁を貰わないことを除けば、弥七は平凡を絵に描いたような男で、人当たりもよく村人達から好かれていた。
しかしある日、弥七はこんな事を言いだした。
「あすこに山が見える」
弥七が指さす先は灰とも藍ともつかない曖昧な色の空が平野に覆いかぶさっているばかりで、目を凝らしてもその中に山の影など見えやしなかった。
「山なんぞないじゃないか」
と、竹馬の友である五郎が言うが弥七は譲らない。
「あるんだよ、うすぼんやりと影が見えるだろう」
「弥七よ、そりゃお前、目の錯覚だよ」
「あれが目の錯覚だと言うなら、お前も俺の目の錯覚だ。なんと言う山かは知らないが、今度行ってみよう」
あくる日弥七は簡単な支度を済ませ、山に向かって出発した。五郎は呆れ、弥七が向かう先に何もないのを見ながら彼を送り出した。どうせ骨折り損のくたびれ儲けとなるだろう。意気消沈して帰って来たら、一緒に酒でも飲んで慰めてやればいい。万が一本当に山があったなら、土産話を肴にやっぱり酒を飲めばいい。
弥七は次の日にもう帰って来てしまった。だが彼は五郎が考えていた意気消沈した姿ではなく、何やら怯えたような顔をしているのだ。五郎は弥七を自分の家にあげ、嫁に温かい飯を作らせてそれを食わせてから事情を聞いた。
「たどり着けないんだ」と床を見つめながら弥七がぽつり呟く。「あの山、どれだけ歩いても絶対に近づけないんだ。これっぽっちも影が大きくならない。ずっと同じ距離なんだ。俺が近づけばその分山が遠のく」
ぎょろりとした瞳で五郎とその嫁を見た弥七は、食いしばった歯の間からうめき声を漏らした。
「あの山、逃げるんだよ」
あくる日、弥七は誰にも何も言わず長旅の支度をして村を出て行った。
最初の二、三日はさほど気にした様子もない村人達だったが、十日も経つと一体どこへ行ってしまったのだろうと心配になった。ひと月も経つと、誰も口には出さなかったが弥七はもう戻ってこないのだろう、もしかしたら死んでしまったのかもしれないと思い始めた。
その間、弥七の家は五郎と五郎の嫁によって守られ、掃除がなされ、いつでも帰ってこられるように準備されていた。だが、それでも弥七は帰ってこなかった。
弥七が消えてから三ヶ月が経った。
ある晩五郎が真夜中にふと目を覚ますと、表に誰か居るのが見えた。戸を開けて見てみると、驚いた事に弥七が立っているではないか。
「弥七! 無事だったのか!」
見た所傷の一つもなく、至って健康そうだ。弥七は穏やかにほほ笑んだままその場に立っていたが、突然くるりと踵を返して走り出してしまった。
「弥七、待ってくれ!」
驚いた五郎は友の背を追いかけた。
弥七は時折五郎を振り返りながら走り続け、ひょいと森の中に入って行った。真夜中の森は視界が悪かったが、久しぶりに帰って来た友が何も言わずにどこかへ消えようとしているのを追わない訳にはいかない。
「弥七! 弥七!」五郎は必死に叫んだ。「どこへ行く、何故逃げる!」
そこではたと五郎は足を止めた。
逃げているのだ。弥七は、弥七が目指した幻の山のように逃げているの だ。
そして今、弥七は五郎と同じように立ち止まっている。
「弥七、お前……」
五郎は震える手を伸ばして一歩踏み出した。弥七は一歩後退った。
少し先で微笑んでいる弥七の口が動き、何かを言っている。音は一切聞こえなかったが、五郎の瞳から涙が溢れだした。
「登っちまったのか、山」
弥七に向かってもう一歩踏み出そうとした瞬間、後ろで悲鳴が聞こえて強い力で引っ張られた。その拍子に五郎は後ろにばったり倒れ込んだ。彼の横で、嫁が真っ青な顔をして震えていた。
「あんた、何してんの!」
金切り声で嫁が叫ぶ。
呆然とした五郎が前に視線を戻すと、弥七は居なくなっており、目の前には大きな崖が口を開けていた。
ひゃっと悲鳴をあげて五郎は嫁を抱きかかえると、一目散に森から逃げ出した。嫁が助けに来てくれなかったらと思うと身震いが止まらない。
ほうほうのていで獣道を歩きながら、五郎の脳裏には先ほどの弥七の笑顔が蘇った。口を動かしていた。何かを言っていた。唇を尖らせ、口を大きく開き、一度口を閉じてまた開き……ああ、そうか。
”……つかまえてくれ。”
夫婦は森を抜け村に戻って来た。
嫁に支えられ、五郎はとぼとぼと家へ向かう。
不意に、あの日、あの全ての発端の日に弥七が指さした方向を見やった。
五郎は目を剥き、蚊の鳴くような声で嫁に言った。
「あすこに山が見える」