多様性を認める必要あるの?

週も折り返し地点、仕事に一区切りつけ、晩御飯を食べ満腹状態でCBDオイルも摂取し完全にリラックスモードである。

こんな状態で新しい創作意欲、ネタ探しなんてする気が起きない。
なのでnoteで用意されているハッシュタグをもとに面白そうなトピックについて自由に自由に書いてみようとおもった。

多様性について

近年、多様性のある社会を実現しようと、LGBTQを認めることや、世界中の人と一緒に働きそれぞれの価値観を尊重しようという風潮がある。
正解が一つとは限らない世の中で色々な視点を持つ人たちの意見をぶつけ、自分たちの正解を導くことが目的だ。

環境問題やウェルビーイングにおいてまだまだ正解がわからないことについてみんなで取り組もうとしている。

ただ、多様性というとき、多様性を認める社会を実現する。という文脈で語られることがあり、違和感を感じる。この違和感について考えてみたい。

認める。というのは、俺はお前を認めてやるよ。という時などに使うように、上のものが下のものに対して使う表現である。

ここだとマジョリティがマイノリティに対して認めてあげることになる。
それは無理があるのではないだろうか。
認められるものと認められないものが出てくるのではないだろうか、そしてそれは認められないマイノリティを差別することになるのではないだろうか。そんなことを語源をもとに考えてみたい。

語源

多様性という語源は、読んで時のごとくである。
多は多いこと、複数あることを示しており、様はありようを指している。
つまり同時に複数のありようが存在していることを指している。

違うもの同士が同じ空間に存在している状態。まるで大気中に存在している酸素と二酸化炭素と窒素のようにふわふわとお互いに影響を与えずに漂っている状態。どこかに上も下も存在せずただそれぞれがあるがままそこにある。まるで大自然の森のような状態である。
木があって葉っぱがあって、花があって、湧水があって川が流れて、鳥が囀る。木は木の役目、花は花の役目を勝手にやって勝手に存在している優劣もなければその瞬間におけるマイノリティもマジョリティもない。木の数や花の数などマクロに見ればマイノリティのもの、マジョリティのものとあるだろうが、一つ一つ単体で見ればそんなことはない。木と花に優劣をつけろと言われても評価軸をもとにどっちが上かなんて変わる。ましては木を原子レベルでみた時と花を原子レベルで見たときにそこになんの違いがあるのだろう。

集合体ではなくミクロレベルでものを見たときにそれぞれ違うものとして存在していること。日本語の語源から見えてくる多様性はそうした自然状態のような姿が見えてくる。

国家間や文化間の違い、LGBTQの違いなんて広いラベル付での違いをいうのではなく、多様性はもっとミクロな様子の違いを表している。

英語の語源 Diversity

英語でも語源を見てみよう。英語のdiversityはラテン語の2つの言葉が組み合わさっている。di は離れていること verseは別の方向を向いていること
それが組み合わさってできた言葉らしい。
これも日本語の意味と同じである。別々に離れて存在すること。
別にどっちかがどっちかを認める必要もなければどっちがどっちの上に立つことも必要ない。
あくまで離れてそれぞれに存在すること。
それが多様性を意味している。みんな違ってみんないい。なのではない、そんないいか悪いかの評価軸も入らず、みんな違ってみんなどうでもいいのである。

そこから見えてくること

こうしてみてみると、多様な社会を作ることは、お互いにお互いに関心を寄せないでただ関わりを持たずに平和に存在している状態になりそうである。
日本はある程度それを実現できている。お隣さんの名前も顔も知らないけど隣同士で住んでいるアパートの住人など。
お互いに干渉せず、それぞれが勝手に存在している状態。それが多様性を認めた究極の姿になる。

が、それでいいんだっけ?

そんなお互いに関心のない世の中が作りたいのだっけ?

そうではないと思う。笑い合える世の中を作りたいんだと思う。
お互い無関心なのではなく、作りたいワクワクする世の中に向けて一緒に進むことだと思う。

お互いの違いなんてどうでも良いのである。
肌の色も性の好みも言葉も本能も。
一つの目的のために一緒に進むことができるかできないかそれだけであると思う。
幼稚園児が砂場でお城を立てるとき、一人でできなければ周りの人を巻き込んで作る。
それが先生だろうと知らない人だろうと、スコップとか犬だろうと猫だろうとなんだろうと関係ない。
自分の目的のために、自分の目的を達成するために巻き込めるもの全てを巻き込むことである。

つまり人間が作りたい世界ってそういうことなんじゃないかな。
多様性なんて人の数あればそれだけ別の目的、趣味嗜好がある。

多様性なんて認めてしまったら目的に達することはより難しくなる。
あるひとは右に進み始めてあるひとは左に進み始める。

じゃあどうするのか?それはみんながワクワクする未来を探すこと。
そこに向けてみんなを駆り立てること。

老若男女、世界中全ての人もの情報、宇宙あらゆる森羅万象を味方につけて前に進むこと。

反対する人が出ないくらいワクワクする未来であれば多様性なんて気にならない。それぞれの人がそれぞれのやり方で勝手に楽しんでいく。

つまり、自分の目指す世界にいかに人を巻き込めるかがこの多様性を認める社会が本当に達成したいところなんだと思う。

つまり、マーケティングの世界。科学の世界。感情の世界なんだと思う。
いかにピュアなワクワクを抱けて、それを人々に色々は方法で伝えられるか。自分の思い描いている世界観をいかに魅せられるかそれがすべてだと思う。

どれだけ本気で自分の好きなことに向き合い、人に伝えられるか。
それが本当の多様性を育む世界を作ることの一歩。
私はそう考える。

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