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外国語は「覚えたら話せる」のではなく「話したら覚える」と思った方がいい
外国語で話す時、その外国語についての知識がゼロなら、話せるわけはない。
けれでも、膨大なインプットをして、その量がいつか十分になったら
話せるというものでもない。
まず「十分な量」をどう考えるのか。
もし潜在的にこう思っているなら危険だと思う。
きっと多ければ多いほどいい、たくさん知っていればいろいろ話せる。
そして、「十分な量を覚えるための期間」をどう考えるのか。
こんなふうに思い込んでいる人が多いのではないだろうか。
数年は準備にかかるだろう。1、2年ではぜんぜん足りない。
私もかつては本当にそう信じて疑わなかったし、昔、私が外国語を話すためにやってきたことも主に「覚える」ことだった記憶だ。
でも、日本語を外国語として取り組んでいる人に何十年も接してきて
「話せるようになる人」「そこそこで終わる人」をわけるものは
「覚える」ことより「話す」ことに時間をどれだけ割くかだと感じる。
極端な例だと、教える側の私が「もうちょっと覚えたほうがいい」と思う状態でも「話そうとする」「話すことを好む」人もいる。
無い袖は振れないので、「覚える」ことももちろん大事だ。
20年前にドイツ語の「勉強」を始めた頃、こんな二つの「刷り込み」が
色濃く自分の中にあった気がする。
①知識は多ければ多いほどいい。
②話せるようになるまでには長年かかる。
今、私はドイツ語の会話力を上げるために、自分を実験台にして多言語話者の典型的な学びを完コピして取り組んでいる。①②の刷り込みを自分から洗い流して忘れるべく。多言語話者は「知識が少ないでも、すぐに話し出す」「持っている知識で話し切る」のが上手い。その感覚を感じてみたかったのだ。
20年前にも私はそれをやっていたけれども、もっと深く。
今は勉強のし始めではなく知識があるので、よりやりやすいはずなのだから。
そうは言っても最初の2ヶ月ぐらいは本当に苦しかった。
簡単な文さえ、すらっと言えない。明らかに聴き取り力も落ちている。
(最初ならもう少しストレスを感じないと思うが、以前はできたと思うと
ストレスは倍増していた。ああ!細々でもこつこつ続けるべきだった!という激しい後悔や自分の劣化への苛立ちが頭の中に浮かんでは消え、するので)
だめだめ!集中!集中!と前向きに気持ちを切り替えて
話すことに臨む。
私は今、多言語話者の学びの型に倣って、「日常的で具体的な自分の行動」に限定して話すようにしている。(時々、脱線はするがそうなるとやはり難しい)
彼らがそれを意識しているのかはわからないが「初期はそういう話題がいい」というデフォルト設定レベルの感覚を感じるからだ。
実際、そういう話題は「概念」だけを抽出しやすい。
つまり一言一句、日本語から外国語に訳すという状態に引きずられにくい。
状況が映像で具体的に頭の中に浮かぶ。
そして「あぶり出される」という感覚がある。
何があぶり出されるのかというと、「どこまで話せて、どこから話せない」境界線のようなものだ。
今週も「病気」「怪我」と言った基礎語彙が、聞かれればすぐに答えられるレベルで「覚えている」のに、いざその言葉を使う段階で「秒で」出てこないことに愕然とした。読めばわかるが発音に自信が持てない簡単な名詞。自分には大切なよくある事柄を言うために必要な文法。主語を何にしたほうがより自然かの判断など。
話してみると、「筋肉レベル」で自分に溶け込んでいない音、語順、語彙などが
はっきりと「あぶり出される」のだ。一旦、あぶり出されたものは「強烈な渇望感」とともに記憶に刷り込まれる。脳の中に「赤線がひかれる」「色ペンで塗る」感覚で自分専用のノートが出来上がる感覚だ。
アナログだが、私はその「あぶり出された」点を手書きでノートに書き込んでいる(笑)自分の記憶力が以前ほどに機能しないと気づいたし、カリカリ書くことにもいいデジタルデトックス感があるからだ。
「覚えたらいつか話せる」と信じ込んでいると、本当に人間は話せないのだなと感じる。そう信じている人に私はきっとレッスンができないと思うが、これを読んで「そうかもしれない」と思え、すぐに行動に移せるならあなたの背中にはもう翼が生え始めていると思う。崖から飛び降りて、「外国語で話す翼」を広げてほしい。
きっとできます。
だってもう、十分「覚えて」きたのですから。