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とある町の小さな小売店4

順風満帆だった30代を経て、現在に至るまでの10数年も、今振り返ると大変だったけど幸せな時間の方が多かったような気がしている。
 ただ、通販サイトの増加等で流通の波が変わり、商店街も営業している店舗数も増える事がなく、むしろ閉店していく店が多くなっていった。
 当店がなんとか踏ん張れたのは家族経営で地元密着型で過度に販売網を広げる事なく地道な経営をしていたからかなと思っている。
 それでも年々、売上は減少傾向だった。
 
 そんな時に病院で肺癌だと告知を受けた。
 
 治療入院となると仕事に大きな穴が開いてしまうと思い治療までの間に出来る事を思いつく限りやったつもりだったが、全く足りていなかった。自分しかわからない事が多すぎたのだ。
 実際入院している時に仕事の指示を電話で何度もやり取りをする事になり、妻にはこの時期本当に迷惑をかけた。
 父がセミリタイアしていて、3人でギリギリこなせる仕事量の繁忙期に入院していたので母と妻の負担は大変なもので毎日が戦争状態だったと聞いていた。
 入退院を繰り返しながらも、退院すれば普通に仕事をする生活になった。いつ入院してもいいようにマニュアルをいくつか作成した。
 治療の方は一進一退だったが仕事復帰を目指して家族のサポートを受けながら以前と同じ時間を職場で過ごしていた。なので自分がいなくなった場合の想定など全く考えていなかった。

 事態が急変したのは6回目の入院が決まった日の事だ。腸からの出血が再度確認され腸が破れて手術になっても、今の肝臓の状態だと手術に耐えられないだろうとの事だった。
 
 そこから自分を含めて家族と今後の家業の事を、夢や願望を排除して、現実的に起こり得る事を考えなければならなくなった。今、そこにある危機なのだから。

 まず自分の職場復帰は無理である事。
次に残された2人では現在の仕事量を続けていくのは、母の年齢を考えると困難である事。
 上記を踏まえると規模を縮小して営業していく方針を思いついた。外販を全て辞めて店舗販売のみにすれば続けていけるのではと考えた。
 もちろん今までより売上は少なくなるので、今までのように二世帯分の給料は賄えなくなる。
 母だけで切り盛りできる体制を整えて、おばあちゃん1人でやってる駄菓子屋みたいなイメージの店舗に変えようと家族に提案した。

 妻には別の職場で働いて貰う事になるが、残された家族全員が幸せに過ごせるには、こうするしかないと思う。
 そして母が働けなくなったら、いつでも辞められるようにしておく事も忘れてはいけない。

 とある町の小さな小売店の歴史は3代目で幕を閉じる事になる。生まれた時から死ぬ時までこの店と一緒だったと思うと、お店が自分の分身のようにも思えてきた。

 この決断を後悔してはいないが、寂しさを感じることは普通のことなんだろう。


 祖父が作った小売店は孫の人生が安全で豊かで幸せに過ごせる大きな船だったのだと思う。
 その船で生まれ大家族と一緒に幼少期を過ごし明るく朗らかな両親に育てられ、仕事も与えられ、この船に守られていた自分が確かにいる。

 大きな船は長い航海を終えて港を目指す事になった。港に到着したら航海に出る事なく廃船になるまで観光船となり停泊する事になる。
 船長として無事に港まで船を運ぶことが最後の仕事になると思って舵輪を掴んでいる。


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