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『急に具合が悪くなる』 にコロサレル!

所信表明で触れた先輩から教えてもらい、このnoteを始めるきっかけになったPodcast番組『奇奇怪怪明解事典』(このPodcastについてもいずれ話します)、その中でラッパーのTaiTan(Dos Monos)が紹介していた本がこの『急に具合が悪くなる』という本だった。
優しい語り口なのにすごく真の詰まった言葉を紡いでいたTaiTanが「自分がこの人大切だなと思う人にはマストで読んでもらいたい」とまで言い放つその本にとても興味が湧いて、本屋へ駆け込んで、すぐに読み始めた。
ずっと涙が止まらなかった。
創作物でしか涙を流すことのない自分にこんな感情があったなんて久しぶりに気づく。
今回はそんな本について。

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概要について。

哲学者と人類学者の間で交わされる「病」をめぐる言葉の全力投球。
共に人生の軌跡を刻んで生きることへの覚悟とは。
信頼と約束とそして勇気の物語。
もし、あなたが重病に罹り、残り僅かの命と言われたら、どのように死と向き合い、人生を歩みますか? もし、あなたが死に向き合う人と出会ったら、あなたはその人と何を語り、どんな関係を築きますか?
がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者が、死と生、別れと出会い、そして出会いを新たな始まりに変えることを巡り、20年の学問キャリアと互いの人生を賭けて交わした20通の往復書簡。
ー晶文社HPより

作者について。

“哲学者”宮野真生子。大阪府生まれ和歌山県育ち。福岡大学人文学部文化学科准教授。九鬼周造の哲学が研究テーマ。
“人類学者”磯野真穂。長野県生まれ。国際医療福祉大学大学院准教授→独立。専門は文化人類学、医療人類学。

本書の往復書簡が始まるのは2人が出会って約半年後である。

読後の感想 ー 学者として、人間として。

2人の往復書簡による全10章。
初めは何の気無しのやりとり(例えばリスクと可能性の話や確率と信頼の話など)が続いていく。
それは学術的な観点から読むと、とても有益で面白いキャッチボールである。
そのまま最後まで進めば良くある優良な書物の一つに過ぎなかっただろう。
しかし6章の中で磯野さんが発した
「今から意識的に間隙を作ります。」
という辺りからこのストーリーの空気が一変する。

どのように変化したのか?
それはここまでは“学者として”の宮野と磯野のキャッチボールだったものが、“人間として”の宮野と磯野のキャッチボールへと劇的に変わっていくのである。
もちろん2人は学者だ。
だから学者としての最低限のラインは引いている。
この頃には出版される目処もついている頃だと思うので、誰かに読ませる読物としてのラインも意識的に引いていると思う。
でも、それでも溢れ出てくる人間としての“感情”と“問答”。
デジタルや紙の上を超えた人間と人間の魂のぶつかり合い。
もはやそれは“キャッチボール”ではなく“試合”と呼ぶのが相応わしい。
読者にそこまで感じさせる程の魂の削りあい。
だからこそ2人の文章が私の感情をここまで引きずり出して、この文章を書かせているのである。

読後の感想 ー あの時に感じた魂の分け合い。

本書の中には“不運と不幸”や“点と線”など重要なトピックスがたくさん登場する。
その中で興味深かったのが“魂の分け合い”と“偶然と運命”について。
この魂の分け合いという話を聞いた時、もともとオフブロードウェイミュージカルで映画にもなった『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の中に出てくる『The Origin of Love』という歌を思い出した。
“愛の起源”という名のその歌はプラトン作の『響宴』に出てくるアリストパネスのスピーチを元に作られている。
曰く「人間は昔、男/女/男女(両性具有)の3つに分かれていてそれらは背中合わせの二体一身だった。しかし神を恐れぬ人間に憤怒した神々は人間の身体を半分に切って散り散りにした。自分のもう半分を探す事こそが愛の起源。」
映画ではこの曲をセクシャルマイノリティへの賛歌としているのだが、あの時私にはこの歌が魂の分け合いの物語に聞こえた。
人生を掛けて自分の片割れを探す旅の物語。
その遠い昔に私が感じた物語が、磯野さんが
「宮野さんと自分の関係が親しい間柄を示すどの言葉もしっくりこずに進み続けた結果、たどり着いた魂の分け合いの物語。」
と言う2人の物語とシンクロした気がした。

読後の感想 ー 「引き受ける」 と 「引っ張り出す」ということ。

そして“偶然と運命”について。
文中ではこの言葉と共に「引き受ける」と「引っ張り出す(つかみ取る)」という動詞が頻出していることが強く心に残る。

突然だが今日、私がコンビニで水を買ったことは偶然なのだろうか?
という問いを立ててみる。
水を買う選択の前には当然のようにお茶やコーヒーを買う選択肢があり、
その中から私は水を選択したことになる。
(必ず決定する前にある)選択するということは
「いくつもある選択肢の偶然性を引き受けて生きること。」
だと最終章で宮野さんは書いている。

今日の私は、水を買うよりお茶を買ったら体脂肪を燃焼できた可能性もあったし、コーヒーを買えばもっと眠気が覚めた可能性もあったけど、その可能性も全部引き受けて水を選択して生きた、ということ。
もちろんこの例えはとても大袈裟だと思う。
水かお茶かの選択で私の人生にさほどの影響があるとは考えられない。
要は「偶然とは必然なのだ」ということだ。
いやもっと正確にいうと
「いくつもの偶然をかき集めて必然としてそれを引け受ける覚悟」
なのだということ。
たくさんの選択肢が自分の前に並んでいる中で、どんなにリスクを計算しても、過去の経験に基づいても、どれを選べば上手くいくかなんて誰にもわからない。
大切なことは「この先不確定に動く自分のどんな人生であれば引き受けられるか、どんな自分なら許せるか、それを問うことしかできない。」ということなのだ。

そして偶然が必然となる時、その先に現われるのが運命。
偶然をこの運命へと転化させるためには時機(タイミング)を掴むということが必要なのである。
掴むというよりも宮野さんの言葉を借りると「引っ張り出す」というイメージ。
私たちは偶然とか運命みたいな言葉を前にした時に、さもそれが自然発生的にそこに生じているような気がするのではないだろうか。
でも実際にはそうではない。
自分から動いて掴んだら離さない、無理やりにでも自分の元に引っ張り出す。
そうして人間が能動的に作用した時にだけそれは発生し得るものなのだ。
宮野さんが抱いていた“偶然と運命”とはそんなイメージなんだと感じた。

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「いくつもある選択肢の偶然性を引き受けて、能動的に動くことで運命を引っ張り出す。」
文章にしたらたったこれだけ。
でもそれを魂を分け合った2人が自分たちの20年間の学者人生というフィルターを通して、命を削りあいながら、時には荒波のように激しく時には雲のように優しく紡いでいくことで、その言葉の本当の意味を教えてくれたのがこの本の意義なんじゃないか。
私はあの日先輩から教えてもらったPodcastを聴いて、この本を買って、このnoteを始めて、今この文章を書いている。
全ての選択には「そうではない」逆の未来があった。
「にもかかわらず」そのすべては反転して私の前に現れた。
それは私が自ら掴んで引っ張り出したからこそ生まれた未来。
だからこれからも俯きそうになったらこの本を何度でも読み返そう。

下を向くな。
未来を見ろ。
「世界を抜けてラインを描け!」

本にコロサレル!
ニシダ

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