学習障害(LD)であるということ〜「発達障害」と診断された人のための「発達障害」の説明書12〜
一緒につくるマガジン
【「発達障害」と診断された人のための「発達障害」の説明書】と題して、マガジンの連載をしている。
このマガジンは、『一緒に作るマガジン』という設定。
「受け身ではない、主体的な学びの機会を作りたい」
という思いからの『一緒に作るマガジン』。
マガジンの作成に読者が参加してもらうことで、きっと、受け身ではない、主体的な学びの機会が作れる。
もし何か質問が出たら、次回はその質問について取りあげた記事を書きたいし、もし自分の記事を取り上げても良いという方がいれば、次回はそれについて一緒に考えたい。
そんな風に、発達障害のことについて読者と一緒に考え、理解を深めていきたい。
ここでの皆さんとのやりとりこそ、リアルな「発達障害」の説明書になり得ると考えている。
「発達障害」の説明書、よかったら、一緒に作りましょう。
学習障害(LD)って?
アメリカ精神医学会が出している診断マニュアルDSM-5におけるLDの診断基準は、以下のようになっている。
A. 学習や学業的技能の使用に困難があり、その困難を対象とした介入が提供されているにもかかわらず、以下の症状の少なくとも1つが存在し、少なくとも6カ月間持続していることで明らかになる:
1. 不的確または速度が遅く、努力を要する読字(例:単語を間違ってまたゆっくりとためらいがちに音読する、しばしば言葉を当てずっぽうに言う、言葉を発音することの困難さをもつ)
2. 読んでいるものの意味を理解することの困難さ(例:文章を正確に読む場合があるが、読んでいるもののつながり、関係、意味するもの、またはより深い意味を理解していないかもしれない)
3. 綴字の困難さ(例:母音や子因を付け加えたり、入れ忘れたり、置き換えたりするかもしれない)
4. 書字表出の困難さ(例:文章の中で複数の文法または句読点の間違いをする、段落のまとめ方が下手、思考の書字表出に明確さがない)
5. 数字の概念、数値、または計算を習得することの困難さ(例:数字、その大小、および関係の理解に乏しい、1桁の足し算を行うのに同級生がやるように数字的事実を思い浮かべるのではなく指を折って数える、算術計算の途中で迷ってしまい方法を変更するかもしれない)
6. 数学的推論の困難さ(例:定量的問題を解くために、数学的概念、数学的事実、または数学的方法を適用することが非常に困難である)
B. 欠陥のある学業的技能は、その人の暦年齢に期待されるよりも、著明にかつ定量的に低く、学業または職業遂行能力、または日常生活活動に意味のある障害を引き起こしており、個別施行の標準化された到達尺度および総合的な臨床消化で確認されている。17歳以上の人においては、確認された学習困難の経歴は標準化された評価の代わりにしてよいかもしれない。
C. 学習困難は学齢期に始まるが、欠陥のある学業的技能に対する要求が、その人の限られた能力を超えるまでは完全には明らかにはならないかもしれない(例:時間制限のある試験、厳しい締め切り期間内に長く複雑な報告書を読んだり書いたりすること、過度に重い学業的負荷)。
D. 学習困難は知的能力障害群、非矯正視力または聴力、他の精神または神経疾患、心理社会的逆境、学業的指導に用いる言語の習熟度不足、または不適切な教育的指導によってはうまく説明されない。
つまり、全般的な知的発達には遅れがないにも関わらず、「読み」、「書き」、「算数」の苦手さが顕著であること、そしてそれが日常生活に支障をきたしている状態であるということであれば、学習障害(LD)の診断が付けられることがある。
よく勘違いされることだが、
勉強が苦手=学習障害(LD)
ではないということである。
全体的にある程度勉強はできるけれど、「読むこと」だけが極端に難しかったり、
タイピングはできるけれど、「書くこと」だけが極端に難しかったり、
そんな子たちの困りを表すのが、学習障害(LD)という診断である。
「字が読めない」のは才能?
発達障害についての議論の中で、「発達障害は才能だ」ということが言われることもある。
たしかに、自閉症の人のこだわりだとか、ADHDの人の多動性・衝動性だとかは、見方によってはプラスと捉えられる要素がない訳ではない。
しかし、当事者としてはそれで困っていることもあったりして、「発達障害は才能だ」と、あまりプラスの部分ばかり強調しすぎるのも、なんだか発達障害を正確に捉えられていないような気がする。
たとえば、LDの「字が読めない」という特徴はどうだろう。それも才能なのだろうか。
発達性協調運動障害(DCD)の、「身体的な不器用さ」それも才能なのだろうか。
俳優のトム・クルーズは、LDを公言していて、台本を読むことが難しいために、台詞は音声に吹き込んでもらって、耳で聞いて覚えているということを聞いたことがある。
トム・クルーズにとって、児が読めないことは短所かもしれない。
しかし、容姿や演技に関しては、すば抜けた才能を持っている。
トム・クルーズがLDであったことと、容姿や演技の才能がずば抜けていることは、きっとあまり関係はない。
一般的に、LDの人が、そうでない人と比べて容姿に恵まれていたり、演技が優れているということはないから。
トム・クルーズという一人の人間の中に、児が読めないという短所と、容姿に恵まれているという長所と、優れた演技ができるという長所があるというだけ。
自閉スペクトラム症(ASD)の人もきっと、あるひとつのことを深く追求できるという長所と、一度興味のあることに取り組み始めると他のことは何も手につかなくなるという短所があるだけ。
一人の人間を構成する要素として、ただ、短所と長所が裏表の時もあれば、そうでないときもあるというだけ。
トム・クルーズという一人の人間の中に、児が読めないという短所と、容姿に恵まれているという長所と、優れた演技ができるという長所がある。
そして他にも、私が知らないトム・クルーズの特徴が、きっと山ほどある。
トム・クルーズ自身が、自分だけが自覚している特徴もあれば、トム・クルーズ自身には自覚できない特徴もあるだろう。
そんな無数の特徴の中で、字が読めないというたった一つの特徴によってLDと診断されているというだけ。
だから、もし「字が読めない」という短所を補えるツールがあるのであれば、それを活用すればいいと思う。
誰もが生きたいように生きられる世の中になればいい
いろんなツールを活用しながら、自分が生きたいように生きればいい。
トム・クルーズもきっと、生きたいように生きているのだろうと思う。
トム・クルーズのことを、私は詳しくは知らないけれど、
ただ演技の世界に生きたくて、
でも字が読めないから、
耳で聞いてセリフを覚えたというそれだけのこと。
野球選手になりたいけれど、運動神経に恵まれない人がいる。
それでも野球に関わっていたいから、勉強をしてスポーツトレーナーの道を目指す人がいる。
あるいは、他の人の3倍、5倍練習することで、野球選手になるという夢をかなえる人もいる。
一方では、他の人の3倍、5倍練習したけれど、野球選手にはなれなかった、という人もいる。
野球選手になることは早々にあきらめて、まったく別の道に進む人もいる。
ただ、どう生きたいかというだけ。
このように生きたいという思いがあって、もしそこに不足している部分があるなら、それをどうにかして補っていくというだけ。
LDも同じだと思う。
字が読めないという短所があるのなら、耳で聞くというツールを使えばいい。
字が書けないという短所があるのなら、音声やタイピングで入力するというツールを使えばいい。
計算ができないという短所があるのなら、計算機を使えばいい。
そうやって、必要なツールを使いながら短所を補い、そして長所を最大限に活かしながら、自分が生きたいように生きればいいということ。
すべての子が野球選手になれるわけではないように、進みたい道をあきらめなければならないこともあるかもしれない。
ただそれももちろん、合理的な配慮があるということは前提の上での話。
LDの子どもたちが、LDという側面を過度に強調しなくても、ただ、生きたいように生きられる、
そんな環境作りが進めばいい。
そして私も、そんな環境を作っていく人たちの中に在りたい。
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