臨床心理学を、外に開く
どうしようもなく傷ついた時(あるいは危機を感じた時)、人間は閉じこもるか、自暴自棄になるか、感情を切り離すか、そのいずれかであることが多いような気がする。
いずれにしても、危機を感じた時、人間は安心を求める。
人間の安心の大元は、親子関係の中にあると仮定して、臨床心理学、特に愛着理論をベースにもつセラピストたちは、その親子関係を擬似的に作り出すセッティングを考えた。
安心をうまく求められない人は、人間の安心の大元である親子関係に不具合があると仮定して、カウンセリングの中で、カウンセラーとクライエントの間にその親子関係を再現し、親子関係の再構築を試みるのである。
そこに再現しようとする親子関係は、クライエントが赤ちゃんの頃、保護者にミルクを飲ませてもらっているような時期の親子関係である。
つまり、親と子の二者関係で世界が完結しているような頃の記憶にアプローチする。
そのような考え方がベースにあるから、カウンセリングルームは閉じられた場でなければならないし、カウンセラーとクライエントの二者以外入ってこられないようなセッティングを作り出そうとする。
そのことを、学生は臨床心理学養成の過程で教え込まれ、それがカウンセリングの常識となっていく。
かく言う私もそのような教育を受けてきたわけで、そのことがものすごく間違っているとは思わない。
ただ、私は、カウンセリングというものの可能性は、マイナスをゼロにするだけではないと思っている。
つまり、親子関係に不具合があって、安心を求められない人たちが、カウンセリングによって、親子関係の再構築を経て、安心を求められるようになることがすべてではなく、日常生活は大きな問題なく送れている人にとっても、カウンセリングは提供価値があるんじゃないかと思っている。
そういう、日常生活が大きな問題なく送れている人たちにとっては、これまでの臨床心理学の知見は、すべてそのまま適用できるものではないような気がしている。
もちろん、カウンセリングは臨床心理学の考え方から出てきたものであるから、根本からその考え方を変えてしまうと、カウンセリングではないものになってしまう。
カウンセリングの軸は残した上で、一般にも適用できるように、少しずつ形を変えていく、そんなことを試してみたい。
それは、臨床心理学のトレーニングを受けてきたからこそ、そして、それを外に開いていこうとしているからこそ、できることであるように思う。
世の中のためになることの中で、自分にできそうなことを、これからもやっていきたい。