息づかいに体を委ねる
先日、僕がお世話になっているLovegrapherの先輩とふたりで銭湯に行きました。
彼は僕より1年ほど前にLovegraphでカメラマンを始め、それからめきめきと実力を引き上げて頭角を表し、今では会社を代表するようなカメラマンになっています。
そんな彼は、単純に僕と比較した時に、とにかく色々と境遇が似ている変な人でもあります。
首都圏から少し離れた町で生まれ育ったこと、親が教育熱心というわけではなかったこと、ラグビーをやっていたこと、小学校から大学までずっと公立に進んだこと、そしてまた、カメラマンをしていること。
何かと境遇が似ていますが、性格は似ているわけではないし、これからの人生も不確定なことが多いもので、それは実際のところ、ただ共通点が多いような気がするというだけかもしれません。
そんな彼が、壺型の湯船に浸かりながら、ぶつぶつと話していたことがありました。
「2020年に何をしようか考えたけれど、何も言語化できなかった」
これが非常に印象的で、理由を聞いてみると、これがまたユニークな視点でした。
彼によれば、今まで瞬間瞬間で全力で駆け抜けてきたものだから、目標やあり方をベースに人生設計をしていたことがそもそも少ないらしいのです。
月並みな言葉でいえば、それは「今を生きている」ということなのかもしれません。
そう考えると、僕自身はかなり逆の思考体系を持っていたなと思います。
実際、毎年新年になれば何かと抱負を考えてしまいますし、そういった「目標」を立てること「だけは」とても好きです。
まずなりたい状態や、理想の生活などをイメージして、そこから行動や日常のタスクに落とし込んでいくのがいつものやり方で、何をするにもまずその思考を挟みます。ある意味でそれは慎重で臆病だからなのかもしれません。
もちろん、合う合わないという見方もありますので、一概に言えたことではありませんが、彼にとっては、目標やなりたい状態を描かなくても、カメラマンとしての実績は残せていますし、きちんとしたステータスを獲得できているのです。
彼と単純に比較すること自体が、そもそもナンセンスであることは置いといて、彼が抱負を描けないこと自体は、裏を返せば、よい結果が帰納的事象として存在しているという意味にも解釈できます。
僕が実験すべきはそういった態度なんだなあと思ったのですが、おそらくそんなことを考えているから行動できないのだなあと反省しています。
息をするように文章を書く。息をするようにシャッターを押す。
当たり前だけど一番難しい。けれど何も意識しない状態で出てくる言葉、出てくる写真が、おそらく自分に一番近い何かなのだと思います。
そういえば、2020年はこんなことをやるぞ!と決心したものの、そもそもどうして年が明けると、人は抱負を考えたくなるのでしょうか?
よくよく考えてみると、2019年12月31日と、2020年1月1日は、2015年5月1日と、2015年5月2日と、なんら違いがあるわけではないと思うのです。
もちろん時期的な問題や、祝日であるなどの各種条件の違いはあるのですが、それにしても不思議な話だなあなどと思うわけです。
時間を暦で捉えるという考え方自体が、そういう「息をするような」自然的行為に最も遠い行いなのかもしれません。
春になると花が咲きます。
夏になると雨が降らず、困ります。
秋になると米が収穫できます。
冬になると木々や動物たちは土に隠れます。
当たり前で、彼らも当たり前にやっていたことでした。
そこに暦はあれど、彼らは時を循環させていました。冬のあとは春であって、それらは直線的なものではなく、円を描くように丸みがあって、そして行先のわかるカーブだからこそ、ハンドルの切り方も慣れたものでした。
刺激のない人生は体感速度を上げるなどといいますが、仮に体感速度を計測したとて、死ぬ時は死にます。
そう考えると、「息をするように」自然として生きていく、という態度こそが、結果的にストレスフリーで、僕らが欲する「実績」という面で見ても、何か大きなものとして残せていくのではないだろうか、と思ったりするわけです。
だからこそ僕も、「こんなことをしてやるぞ!」という野望や「本当にこれで合ってるんだっけ?」という立ち止まるフェーズを一旦倉庫にしまっておいて、まずは息をするように、なめらかに生活をすることができるよう心がけていきたいなあ、なんて思います。
だから、意味や学習なんて、その後の後の後でいいんです。
2020年1月5日
オチのないショートショート.