言葉にしてもね
どうして小説が書きたいなんて思うようになったのか、それを考え出すことは有益なもののように見えて、案外そうでもなかったりする。
自分の中で、なんとなく答えがすでにわかっているから。
というのも、これは言語化した途端に陳腐なものへと変貌してしまうことへの恐怖心もある。
テーマとして「物書き」に関する思考であるからこそ、言語化へのプレッシャーがかかるのだ。
でも、現実は意外と惨めだし、答えは意外と普通だったりする。そして正解は、いつも美しいわけじゃない。方程式を解いたら、答えが√11になる、なんてこともよくあることである。
シンプルな答えは力強く、シンプルな問いはレバレッジがきく。だからこそ、僕は小説を書くことに意味を見出そうとしてしまうし、「なぜ」の答えに美しい物語を無理やりこじつけてしまいそうになる。かつての僕がそうであったように。勝手な因果関係を作り出し、それらに導かれるように、物語が存在しているとさえ錯覚してしまう。
たぶん、現実はそんなことはなかったりする。見ないようにしていても、自分が何も考えていないことに気づくときは来る。
2020年の抱負を掲げていても、それは本当に掲げているだけで、それ自体はふわふわしていて、僕の中で輝いているかと言われると、やはりそれもそんなことはなかったりする。
ぐるぐるぐるぐる考える。
つもりになってみて、ぐるぐるぐるぐる考える。
どこまで考えても、すでに作りたいところから、理由を後で見つけようとしている自分がそこかしこにいる。
僕にとっては理由ではなく、現象そのもの、行動そのものに価値があると思っているのかもしれない。
いいや、実際はその逆で、心の中にはそういったあり方としての意味が先にあって、その上で行動が成り立つ、目標がようやく意味という何かを持ち始めるという信念がありながら、僕はもっぱら、その真逆である行動自体から自身のあり方や視点、抽象化された嗜好を拾い上げたいのかもしれない。
ぐるぐるぐるぐる考える。
つもりになってみて、またぐるぐるぐるぐる考える。
そんなことを考えていたら、小説のアイデアの方が先に浮かんできてしまうわけである。
これは一本取られたなと、ひとり夜道に笑う。
2020年1月4日
オチのないショートショート.
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