ただゆるしてくれること
今日も徒然なるままに、起きたてのベッドの中で書きます。
ある時、私はSNSで、偶然、ある若い知り合いの女性の一枚のスナップを見たんですね。
知人に、不意に撮影されたスナップだったのだと思います。
彼女はくったくなく笑って、みたらし団子を食べていた。
その時期、実は彼女は、学校も出て、苦痛と混乱の中を通っている時期でした。
でも、その写真の彼女は、なんの悩みもなく、楽しく気楽な・・・そんな空気をまとっていた・・・その一枚きりの写真の、その瞬間の彼女は。
瞬間的に、私は思ったんです。
本当のことなんて、だれにも決してわからないっていうこと。
同時に、彼女はこの日、この場所で気楽だったのだろうということ。
それはとっても必要な気楽さ。
だれに評価されることも、深い部分を探られることもなく、ただ美味しいものを食べて笑って、浅い雑談を交わして・・・。
でもそこには友情もあって・・。
だからこの気楽さを、彼女がその日に、数時間でも、半日でももつことができたのは、彼女にとって、とても必要なことだったんだということ。
にんげんにはそうやって、集団のなかにまぎれて、個人として、ほぼなにも深刻に追及されない時間が、とっても必要なんだ・・ということ。
彼女は、幼い頃から繊細で、学校に行けない時期も長かった。
性格も頭脳もとってもいい。 だけど、学校とか、いわゆる社会の中では、何かうまく適応できなくて、身体中が痛くなったり、心が苦しくて寝込んだりを繰り返してきた。
今も、周囲の愛ある大人や、お母さんや、時にはカウンセラーなどの助けを借りながら、
なんとか、「世間が求める成功とか、こうあるべき姿」が、幻想でしかなくて、「自分は自分が幸せだと思う生き方をしていい」という方向へ向かっていっている真っ最中で・・
そこへ向かって行っている真っ最中であることは、とてもとてもいいこと。
これこそ、幼少期からずーっっと彼女がするべきことだった。
幻想でしかない「世間の目から見るhave to と should」に彼女は、めちゃくちゃにされて、壊れそうだった。いや壊れていた。
その、いったん壊れていた時点から、
今は、「新しいいのち」を得て、ゆっくりゆっくり歩いている真っ最中。
それをだれも邪魔してはいけない。
一枚のSNSの写真。
もし、あの一枚の写真でしか、彼女を知ることができない人がいたなら、
彼女がそのパーティの帰り道に、
どんな顔をして暗い道を歩き、
バス停でバスを待ち、
あるいは電車の座席でぼんやりと不安な気持ちに引き戻されて、
「しっかりしなきゃ」とか、「夕飯はなんだろう」とか、「ああ、あれを仕上げなければ・・」とか、
何を考えて、
どんな顔つきで、そこに座っているかなんて、知ることはできない。
人の、ある断面、ある一瞬だけを垣間見て、
その人を「こういう人だ」とか「元気で幸せそう」とか、
明るいとか暗いとか、なんだかんだ・・・
だれも、正解なんか持ってはいない。
ジャッジなんか、できないのだということ。
そのことが、今朝は、みょうにこみあげてきた。
だから、ああyuigon日記に・・・と、Macを開いてこうやって記している。
今朝、布団の中で夫と会話を交わして笑っていた時にふと、
「夫のことは、本人以外なら、おそらく地上のだれよりも、わたしが一番知っているのではないか・・」と思った。
彼もきっと私に対してそう思っているだろう。
私が、どんな服装で、どこで何をしていて、
そこで私が、とっても元気でたくましそうに見えたり、賢そうに見えたり
あるいは、めちゃくちゃ惨めで、落ち込みやすい人に見えたり・・
どんな断面、瞬間があったとしても、
私は多面体だ。凸凹つきの。
その凸凹つき多面体の私を一番よく知ってくれている人で、
そして私を決してジャッジしない人。
ありのままを受けとめて、愛してくれる人。
そういう奇跡のような人が、
自分の人生に今、存在しているということ。
そのことに今朝はあらためて気づいた。
ほんとうに感謝しかない。
決してジャッジしない人。
どんな私でも。
汚くても、みじめでも、臭くても、ずるくても、失敗しても、成功しても
賢くても、おバカでも、昔はダンスが上手くて、だけど今はもう足も上がらなくて、あんなに引きしまっていたはずのお尻にこんなに肉がついていて、かっこうわるすぎて水着が着れなくて、ダイエットをすると言いながら3日と続かなくて・・
それでも・・
決してジャッジしないで
ゆるしてくれる人。
ゆるしてくれる人・・
なにがあっても・・・
ゆるしてくれる人。
そんな人が
みんな、
必要なんだよね。
みんな、みんな必要なんだよね。