私にとっての旅行、誰かにとっての旅行
新年明けましておめでとうございます!2023年になったそうです。
今まで日本でしか年越しをしたことがなかった私にとって、暑い中のタイでの年越しは、なんの実感も与えてくれませんでした。紅白もない、年越し蕎麦もない、除夜の鐘もない。そもそもクリスマスが終わったってのもまだよくわかりません。笑
そして何より、インスタのストーリーを見て日本の友達が「明けましておめでとう!」と投稿していても、まだこっちは2022年。そして二時間後にやっとこっちは年明け。それでもまだ2022年の国が世界にはたくさんある。いやはや、時差って不思議ですね。時差も時間もそもそも人間が生活するのに便利なように作られたものであって、現在時刻が違っても、生きている今は同じ今だし(伝われ)、サマータイムとかがある国は季節によって1日の時間が変わったりするんだよね?本当に不思議だし、人間によって作られた概念でしかないのだと思うと、なんだか実は大したものではないのかも?などと良くわからないことを考えます。
というのはまあ余談で。
昨日(1月1日)年越しを、タイでの目玉イベント(?)である花火を見るために、友達と歩き回った先で迎えた私は、帰りも人がやばいせいでなかなか帰宅手段を見つけられず、歩いたりなんだり最終的にタクシー取れてとかして深夜の2〜3時にようやく家に着いた。帰った後もなんだか物語が読みたくて友達に先日お勧めしてもらったネット小説をしばらく読み続け、その後漫画を読み出して、などして結局寝たのが朝6時とか7時とか。初日の出という概念も忘れていたのに日が登るまで起きていて、あ、初日の出せっかくだったら見ておけば良かったななどと思いながら睡魔に負けて眠りにつく。そんなことしたらまあもちろん寝坊するもので、今日は夕方16時過ぎに起きたのでした。食事以外は家に引き籠もって元日を過ごそうかなと思っていたんだけど、最近仲良くしてもらっているナショナリティが違うフルタイム(四年間)の留学生の友達の召集で外に出ることに。他もう一人日本人の友達が来るかなと思っていたけど、その子はもう既に他のところに出かけていて来れず、珍しいことに私ともう一人の友達だけで会って一緒に時間を過ごすことになった。
今日書きたいのは、その時の友達との会話で考えたことの話。前回の旅行の時に書いたnoteと中身とか考えたことはすごく似ているんだけど、せっかくの新年一番に思ったことはちゃんと記録しときたいなと思ったので。
夕飯を食べに行くために移動をしながら、色々と話していて、ふととある話題を投げかけられた。
「そういえばベトナムは何人で行くの?」
来月、じゃなくてもう今月だ。最近色んな国を訪れている日本の友達がベトナムに行くらしいので、それに便乗させてもらって、数日間ベトナムに行ってくる。それを前に話してたみたい。(話したことも忘れてた)
「二人だよ」と返すと、その友達はとても苦ーい笑いを浮かべた。「二人、、なんかちょっとあれだね」(記憶も曖昧なのでこんな感じってだけ)
「海外で二人だけの旅行ってちょっと怖いしあれじゃない?」
「あー、二人とは言っても友達は男の子だし、そんな怖いとは思わないよ。私一人だったらそりゃ怖いけど。だからこそ一緒に行かせてもらえたら心強いと思って。」
「ふーーん、まあそれでもねえ、、」(変わらず苦い顔)
その子曰く、その子にとっての旅とは海外に行くなら尚更、「グループで行くもの」だから二人で旅行なんて有り得ない、とのことだった。多分二人はなんだか気まずいし、そもそも大人数で行った方が割り勘になってお金が安く済むから、そうするしかない、という感じみたい。私はグループで行動するよりも一対一の方が落ち着くことが多い人間だから、ちょっと前者に対する「有り得ないわ〜〜」っていう顔に関してはちょっとそれは偏見がすぎるでしょ、とも思ってしまうけど、後者に関してはそれはそうだよな、とも思った。まあでも文化の違い、背景の違いなんだろう。(男女二人で旅行に行くのはとかに関してでなら、まあそう思われるのも世の中の常識的には仕方ないことだと思うけど、明らかに友達の「苦い顔」が来る原因はそこではなかった)
「めちゃ運が良く、楽しむことができればいいけどねえ、、」
友人の苦笑いとそんな感じの言葉でベトナムについての話は終わった。
「maroってめちゃくちゃ旅行してるよね」
旅行の話の延長線上でこんな話になる。
「僕たち(彼と同じナショナリティーを持つ人々のことを指す)は旅行したいと思ってもそんなお金ないからする余裕ないよ」
友人のそういう話を聞くとなんだかちょっとソワソワしてしまう。これは罪悪感?背徳感?なんだか自分がずるい人間であるような、そんな感覚。
1セメスターの間にタイ国内はいくつか行くことができたとはいえタイ国外に旅行に行くのはベトナムが二回目で、他の1セメスター、2セメスターだけ勉強していくような留学生(特に欧米人たち)とかと比べるとそんな多いわけでもない。
それに、日本に居ればこんな旅行は私も絶対に出来ていないし、「タイに居る間だからこそ」と機会を大切にしているというのもある。日本から東南アジアの国を訪れるよりも、タイから他の周辺国を訪れる方が安いし。
そもそも日本の学生は大学生の間に旅行する人が多い。社会人になったらそんな時間なくなっちゃうから、学生の間にバイトたくさんして稼いで、それで旅行するって人たちが多くいるし。
「じゃあ日本人は大学生で旅行する人たちが多いの?」
「うーーーーーーーーん、まあ人によるけど、、、、、」
「僕らは学生で旅行そんなする余裕はないよ。したいと思って働いてお金を稼げたとしても今度は時間がなくなるから」
「まあそれは日本も同じだけど、、」
でもバイトはしていないよね?(とはもちろん言っていない)
友人から発された言葉を全てなんとかいやでも、、、と返そうとしている自分。
頑張って選考を通り抜けた先で奨学金をもらっているし、今までのお年玉とか貯金していたお金からもお金を使っているし、、、
私も別にお金に余裕があるわけではないし、むしろ金欠だけど、今はいいや、帰ってから稼いでその分返せば良いやと思ってるし、、、、
とはいえ私は私の環境が恵まれているのを知っている。それらのお金があっても正直お金は足りていないから親がお金を多く出してくれているし、お年玉とかだって元は自分のお金じゃない。留学に来る前まで働いて稼いだバイト代とかの貯金を使っている人も周りにいるけど、私は今まで稼いだお金全てがライブをするためや演劇をするためのノルマ金や交際費に飛んでいっていて、何も残っていない。そもそも私立の大学に通わせてもらえているのも、こうやって留学できているのも、自分の稼いだお金を自分の勉強以外のことに使えているのも、ものすごく恵まれていることなのだ。留学のための保険にかかるお金は高すぎて親と一緒に目を丸くしたのを覚えている。
わかっているけど、わかってはいるけど。
タイではバイトをしている学生はあんまりいない。なぜなら稼げるお金があまりにも少ないから。(友人談)バイトをしているタイ人の友人も、稼げるお金は少なくても、日本で将来働きたいから、日本に行きたいから、と頑張っている。そもそもフルタイム留学であったとしてもタイは留学生ってバイトできるのか、、?
旅行に明け暮れている(つもりはないし、そのために留学に来たわけではないけど、きっと周りの交換留学生以外の子たちからはそう映っているだろう)私よりも、彼ら彼女らは真面目に勉強をしていて、成績を取ろうと頑張っていて、志もある人が多い。奨学金をもらって、大学に通って。
これはもちろん国と国の間のギャップだけで言えることじゃなくて、国内でだって当然たくさんあることなのだけど。
高校生時代に感じた「お前は恵まれているから」というような周りからの目。私の高校はバイト禁止とかはなかったけど、部活とかに勤しむ人が多くてバイトをしていない人が多かったから(私もその一人)、基本的には親からもらうお金かお年玉の貯金とかが自分の使えるお金だった。
別に自分が何か悪いことをしているわけではないけど、なんだか悪いことをしているような気持ちだった。
大学生になってそれぞれバイトで稼いで自分のお金で色々と自分の好きなことを自由にする人が増えたから、あまりそういう目は感じなくなった。
でも、そういう風に自由にできる人が周りに多いのは、似たものが周りに多いからもあるし、見えていないものもたくさんあるからだろう。
友達に高校に通わずにほぼ毎日のように働いている、タイ人ではない他の国にナショナリティーを持つ年下の子がいる。ボランティア先で知り合った。
彼女が「今度旅行に行くんだ」と言う。「maroと一緒に旅行がしたい」と言ってくれたから、「参加してもいいなら参加したいな」と伝える。公園で散歩するのだと彼女は言う。彼女からしたら国を越えての旅行は選択肢にそもそも存在しないのだと思う。
彼女にとっての「旅行」。
先日バンコク市内のチャイナタウンの方を友達と歩いた。全然知らなかったその景色や、空気に「まるで1デートリップをしてるみたい」と私は言った。私にとってバンコク市内に住んでいる以上、バンコク市内のどこかに行くことは「旅行」でないという考えの現れだと思う。
「来週この曜日活動来れる?」
「ちょっとごめん、その日は厳しいかな」
「他なんか仕事とかがあるの?」
「ちょっと用事があって」
実際には友達と遊ぶ予定があるだけだ。
働くが第一なのが当たり前の彼女から、ボランティア先で一緒に活動している時以外の自分がどう映るのか不安で、インスタを交換しているのに、私は自分のストーリーを彼女には見えないように設定してしまっている。これはおかしなことなのだろうか。
カンボジアに前回旅行に行った際入った飲食店で、昔日本語を学ぶために日本で少し留学していたという日本語が話せる店員さん(元々は日本語ガイドだったらしいけど、コロナのせいでガイドの仕事をやめざるを得なくなり、今は飲食店でお手伝いをしているとのこと)に聞かれたこと。
「なんでタイに留学してるの?日本で学べないことなんてないでしょう?」
そっか、留学する目的って。
異文化や違う価値観に触れたいから、なんて理由は一種の贅沢なのかもしれない。
「日本人であることを誇りに思う?」
行った先のショッピングモールにたくさん日本のお店があるのを見ながら友人が私に聞く。
「別にそんなことはないよ、なんとも思わない」
「日本人に生まれれば良かったな」
今日友人から二回も出てきたこの言葉。
一回目はその後に「ジャストキディング」って言ってたけど、本当に冗談なのかは良くわからなかった。
背景が違うから?環境が違うから?そういうもの?
日本人はずるいの?私はずるいの?きっとそんなことはなくて。
じゃあ恵まれなかった環境に生まれてきたのが悪いの?そんなことも当然なくて。
でも、その環境によって得られるものが全然違う。得られる機会の数が違いすぎる。
すべての人が同じように、同じだけの機会を得られるような世界を、
というのは教育においては例えいつか未来で叶えられるようなことがあったとしても、旅行に関してはきっとそうもいかないだろう。
別に遠くに行くことが良いことではない。別に海外に行かなくたって生きていけるし、行かなくたって幸せになれる。公園で、河川敷で心地良い風が吹く中をゴロゴロと眠り続けるだけで私は幸せだし、日本に帰ったらすぐにそれをしたい。
だけど、選択肢にある中でそれを選ばないのと、選択肢がそもそもないのとでは全然違う。
選択肢としてあって、海外留学を選んで、旅行することを選んで、私は選んだのが自分にとって正解だったのだと思う。
すべての機会が、すべての人に、平等に与えられるという世界の実現はきっと難しいだろう。ただの理想論だとしか言われないだろうし、差があるから世界は成り立ってるのだと言う人もいると思う。
確かにそうなのかもしれないけど、目の前で、実際に友人と同じように同じ今を過ごしている中で差を突きつけられてしまうと、「仕方ないことだよ」と目を逸らすことはできない。でも今私にできることは何もない。
「旅行自粛」?「贅沢自粛」?
そんなん誰にとっても幸せにならないと思う。これは「旅行したい」という自分の気持ちを正当化しようとしているだけの自分勝手な意見?だけど、一体、どうすれば良いんだろうか。
旅行に限った話ではないけど。「自分が恵まれていること」それに対して罪悪感や一種のコンプレックスのようなものを抱えずに済むような、「みんなが選べるのが当たり前」の世界ができたら良いのに。とっても自分本位な考え方ですみません。でも、本当にそう思う。まあそもそも自分自身が次の世代を支える立場になった時、「自分が恵まれている」と思わせてあげられるかどうかはとても怪しいところではあるが。というか社会に出たら普通に自分やばいと思う。
そもそも日本が恵まれている側とされる状態もいつまで続くかわからないよねとかも巷では言われているみたいだけど。
こんな長々と書いて、別になんの答えがあるわけでもなく、ただ私の中の罪悪感的なものを吐き出しているだけでしかない。
結局それでも私は旅行がしたいし、自分が旅行できるなら良いと思ってしまうのだ。こんな自分をこんなに考えているから、許してよと言っているだけも同然だ。
いつかこの気持ちを、何らかの行動に変えて、昇華させることができるのだろうか。
何らかの行動って一体全体何なんだろう。大金持ちになって富の分散?大金持ちになるってどうやって?金があることがいいことなの?いやでも生きていくには結局お金が必要だ。もう色々とよくわからない。
あんまり向き合いたくない、罪悪感のようなものを抱えながら、それでも結局、知らないものを見たいと、楽しいことがしたいと、また遠くへと旅に出てきます。
などと、綺麗に終わらせようとしてる感満載の文で、今のとこは締めさせてください。