幸福はコントロールするもの
「五十にして天命を知る」
孔子がそんなことを言っていた気がするが、はたして天は僕たちに命をくれたのだろうか。というか使命を知るのが50歳というのは結構遅くないか。平均寿命が80歳を超える現代においても。24歳くらいで教えてくれてもいいのに。
しかしながら、若くしてやりたいことが決まっている人というのは中々いないように思える。例えば中学高校で進路について考えるとき、「将来は○○(特定の職業)になりたいです!」と所信表明をできる人は周りに何人いただろうか。就職先や職場が自分にとっていいものだと誇れる人はどのくらいいるだろうか。年を重ねても路頭に迷う人なんて大勢いる。自分がやるべきことが手に取るように分かる日など一生来なさそうである。
そう考えると、50歳まで生存できた記念、として神がこれから為すべき天命をプレゼントしてくれてもいいかなと思わなくもない。
幸福のコントロール
ところで、実は天命がどうとかをテーマにして話を進めたかったわけではない。ここまで読んできた人には何となく申し訳ないが、サブタイトルは「ネガティブさとポジティブさのコントロール」にでもしよう。
身の回りに文句や愚痴、不平不満をよく口にしている人はいるだろうか。はたまた自分自身がそうであろうか。
個人的にはネガティブな言動を極力控えるようにしている。理由は単純明快で、言霊を信じている節があるからだ。リアリストな方ではあるが。ネガティブな言動は見て不快、言って不快、聞いて不快の三拍子である。否定的なことを感じる度に、日光東照宮から三猿が毎度のように僕の脳内に出張してくる。
約2年前、お猿さんたちの活躍で(?)楽観的思考を身につけた。小中学生の頃は死ぬのはいつか、地球はいつ無くなるかみたいなことしか考えてなかったのに。おかげさまで人生はっぴーである。物質的に僕より裕福な人はたくさんいるが、非物質的な観点においては大体何でも楽しめてしまうような性格になったかと思われる。脳内回路が壊ショートしたのかもしれない。いい方向に。
最近は、悩みを抱え続ける苦しみなんてものが専ら欠如していると感じる。この先何があっても大体は解決しそうなものである。だが、決してネガティブさは否定しない。成長するには手っ取り早い要素だからである。簡単な話、勝負に勝ったときよりも負けたときの方が色々思考を巡らせることと同等だ。時にはそんなことも必要だと思う。
さて、特に伝えたいメッセージなど無しに猪突猛進してきた訳だが、ここまで読んで何を感じただろうか。端から読みやすさは考えていない。ふと思ったことをまとめているだけである。
今日はここら辺で終わりにしようと思う。次回は「僕の個人的な他人に対する価値観」についてでも語ろう。