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人間には自由意志がないと知った時、、、(by分身主義)
![農民芸術概論](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/43396298/picture_pc_9286c52d571446eba4efd99792695944.jpg?width=1200)
(この記事は一部、Kindle本に転記されています。できればそちらでお読みください。)
人間には、自分自身で、なにやら「意志」というものを自由に生み出す能力があって、その能力に従って自分の行動を決定することができると誰もが信じてきた。
つまり、人間には「自由意志」があると思われてきたよね。
だけど科学ではもはや、人間は自分の「自由意志」なんかで行動していたのではなかったという結論に到達しているんだ。
つまり、今ジジイがこのnoteに書いていること自体、自分の自由意志なんかで書いているのではないということになる。
それだけでなく、ジジイの全ての思考、全ての行動、それも一挙手一投足「自分の意志」で行っているものは、何一つなかったということなんだ。
今、「科学では結論に到達している」と言ってしまったけど、科学者と言われる人がみんなその事実に気づいているわけではないし、むしろ、まだ知らない科学者の方が多いに違いない。知ったとしてもその事実には目を背けて忙しい研究に没頭していたり、感情的に受け入れがたくて詭弁を弄して否定している人たちもいる。
でも、実験でも証明されているし、実験などしなくてもこれまで科学が解明してきたことを整理すれば、誰でもわかることなんだ。さすがにネコでもわかるとは言わないけど、順序良く説明すれば中学生くらいでも大概わかるはずだ。
今日は頑張って、その説明に挑戦してみようと思う。世界平和のために!
人類が「我々は、自分の自由意志で思考し行動を決定していたわけではなかった」という事実を謙虚に受け入れ、その失意 (?) から立ち上がった時、初めて世界中から争いをなくし、みんなが幸福に生きるユートピアへの第一歩を踏み出すことができる。そのことをジジイは死ぬ前に、遺言として書き残しておこうと思う。
そしていつの日か、世界平和を実現させてほしいと思うんだ。
(本当はジジイが死ぬ前に叶えたかった夢だったから、若いころは自分なりに頑張ってみたけど、力不足でだめだった‥‥。それに、まだ機が熟していなかったんだ)
(この記事は本文を読むのに40分くらいです。文末の補足部分は15分くらいです。コーヒーでも用意してゆったりとお読みください【31.825文字】)
1.まずは分身主義の【第1定理】と【第2定理】
![](https://assets.st-note.com/img/1704413331828-VKKh6hYh2B.jpg?width=1200)
*この科学的真実(自然界の真実)を知って全ての人がそれを受け入れた時、人類は、その向こうで両手を拡げてずっと待ってくれていたユートピアに踏み入ることができるでしょう。
分身主義というのは、この科学時代を生きる我々が、世界を平和にするために持たなければいけない「視点」のことなんだ。つまり、この二つの定理を、世界中の人が九九を習うように、みんなの記憶に上書きできれば、世界は放っておいても平和になるとジジイは考えている。
この【第1定理】と【第2定理】を読み返してくれればわかるように、この二つに共通に言えることは「人間には自由意志などなかった」ということだ。
今まで僕たちが普通に使っていた「人間には意志がある」という言葉、どちらかというと、良い生き方をするためには必要なものというイメージだったし、誰もがポジティブな意味に使っていたよね。
例えば、世界から核兵器を廃絶させるためには、「世界中の人たちが、核兵器を作らないという強い意志を持つことが大切だ」‥‥とか、「彼は強い意志の力で自らの難病と闘いそれを克服した」‥‥などと使われてきた。
その逆に、もし人間に自由意志というものが存在しなくて、何かに操られて行動しているだけだということなら、悪いことをしても「やらされただけだから俺は悪くない!」などという責任転嫁に使われる、という否定的な意見もある。
だけど、世界を平和にしたり、僕たちが幸福になるためには、そこではなく、その向こうの《我々の脳に意志を生む環境》にこそ目を向けるべきだったんだ。
それが今日の話だ。
2.世界平和にこそ必要だった科学
ジジイは子供のころから、人間たちやこの世界がいがみ合ったり争ったりしていることがとても嫌だった。中学生になった頃、この世界が平和になるためには芸術が役立ってくれると思うようになった。
何故って、どんなにいがみ合っている国でも音楽だけは別で、一緒に楽しんだり共感し合ったりできているじゃない。文学だって絵画だって、あらゆる芸術が国境を越えて感動を共有し合うことができる。
今はまだお金がなければ生きていけない時代なので、ジジイも他のみんながするように、表向きには普通に会社に就職してごく普通に生きてきたけど、裏の顔では、世界を平和にするにはどうしたらいいのかをずっと研究し続けた。
それには、「人間はなぜ芸術を必要とするのか?」を考えて行けば答えにたどり着けると思っていた。先ほど言ったように、芸術は国境を超えて世界が一つになり仲良くなれるものだという予感があったからだ。
そのように、世界平和という目的で芸術の研究を進めていたんだけど、30歳後半になった頃、気づけば科学を独学で勉強し始めていた。それまで科学は芸術とは対極にあるもので、平和とは馴染まないものだと思っていたけど、むしろ世界平和にこそ科学が必要だと知ったからなんだ。
![科学とは3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/43270501/picture_pc_07f7b60b85e00c1401529d81d51c1dad.jpg?width=1200)
上の図の赤枠・青枠・緑枠で囲った部分がジジイが特に夢中になって勉強したものだ。「社会科学」の中の経済学、社会学、経営学は、世界平和とは逆行するものだと感じていた。「お金」がこの世界を平和にできないと考えていたからだ。
だけど、反面教師的にそこから何かを学び取ろうとして何度も勉強を試みてみた。でもどうしても嫌悪感が先に立ってしまい理解することもできず、結局、挫折してしまうことになる。
カリキュラムに則って上から教えられる勉強と違って、平和という観点から自分が興味や疑問を持ったものを勉強しているうちに、新たな疑問が湧き、それに対してまた知りたくなり勉強する、という風に芋づる式に勉強した結果、ここまで広範囲に勉強していたんだ。
一番初めに調べたのは、動物の「本能」についてだったなあ。そして『世界平和のための本能分類表』などというのを作ったりしていたのを懐かしく思い出す。
インターネットの情報量は今とは雲泥の差で検索してもほとんど必要な情報は手に入らなかったし、通信料が莫大にかかったし、接続にも時間がかかった時代だったので、主に図書館に行ったり本を購入したり、テレビの科学番組を見たりして勉強をした。放送大学などはテキストは有料だけど受講料は無料だったのでむさぼるように聴講しまくった。
3.そもそも自由意志とは何か
まず、「意思」という言葉と「意志」という言葉の違いから‥‥。
《自由意志》と表記している本と、《自由意思》と表記している本があるんだけど、「意志」と「意思」は、意味的に重なり合っているところもあって紛らわしいので、確認しておくことにするね。
・「意思」は「何かをしようとする気持ちや考え」という意味。
「ーー表示」「ーーの疎通を欠く」「個人のーーを尊重する」「本人のーーに任せる」
・「意志」は「何かを成し遂げようとする強い気持ちや考え」という意味。
「ーーの強い人」「ーーの力でやりとげる」「ーー薄弱」
要するに「その気持ちが強い」かどうかくらいの違いで、「強い気持ち」の場合は「意志」と書くようだ。ここではどちらの場合も当てはまるのだけど、取り敢えず《自由意志》という字を当てることにするよ。
それでは、《自由意志》とは何かということから考えてみよう。
僕たちは、耳が痒(かゆ)い時や蚊に刺されて痒い時、無意識で掻いていることがある。眠っている時に掻いていて、朝見ると傷になっていることもあるよね。
また、太陽が眩しく感じた時、即座に手で光を遮(さえぎ)っていたりする。
熱いものに触れた時、「アチッ」と言って、無意識で手を引っ込めている。
僕たちの行動は、どちらかというと、大半がこのような無意識の行動で占められているように感じる。
これらを、《自由意志》と呼ぶ人はいないよね。
《自由意志》とは、無意識に行動を取らされている時には働いていなくて、何かを意識的に行おうと思うことに対して使われる言葉のようだね。
つまり、本人の「意識」が関わってくる言葉なんだ。
でも、意識して行動をしているとしても次の場合はどうだろう。
母親に、部屋の中を掃除しなさいと言われて、しぶしぶ掃除をするような場合だ。
自分が掃除をしているのは意識している。面倒臭いなあと思っているくらいなんだから。だけど、親に命令されてする行動は、明らかに、《自由意志》でやった行動とは言えないよね。
何かの影響(指図や制約)を受けて行動を起こした場合、それは自分の《自由意志》で行動したとは言えないということだ。
つまり、《自由意志》とは、何からも影響(指図や制約)を受けずに、自発的な決定に基づく「思い」のことのようだ。
この定義を覚えておいてくださいね。
4.科学の大原則
まず、とても重要なことなので、科学の大原則から話そうと思う。
科学は、いろいろな現象の原因を解明して、それぞれに○○の法則などと名づけたりしているけど、それは言い方を換えれば、法則を見つけるたびに、我々に「全ての現象には原因がある」ということを実証してくれているとも言えるよね。
そしてもっと言えば、全ての現象は、「原因⇒結果」の一方通行であり、時間は決して、「現在⇒過去」のように逆には進まない、という実証でもあると言える。
スティーブン・W. ホーキングさんが「時間順序保護仮説」なる本を出している。量子力学や難解な物理法則を駆使して、時間は過去から未来に向かってしか流れないという説を論じている。
![時間順序2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/43581216/picture_pc_588961de337ffd5c72f514e32fa8489f.jpg?width=1200)
しかし、難しい理論なんて知らなくても、僕たち凡人だって、そんなことは理解している。大事にしていた食器を割ってしまった翌日、それが元通りになっていた、という幸せな体験をした人は世界に一人もいないということを知っているのだから。
この「全ての現象には原因がある」=「原因⇒結果の一方通行」=「時間は過去から未来に一方通行にしか流れない」という科学の大原則は、科学を行う人たちにとっては(あくまでも科学を行う場合という意味においてだけどね)絶対的に服従するしかないものだ。
もしこの原則にほんの少しでも疑問が生じるようなことがあれば、今まで築き上げてきた科学の方法論や発見は疑わなければならなくなり、また、科学が発明してきた物は、危なっかしくて使えないということになるよね。
例えば携帯もパソコンも電子レンジも車も飛行機も、次にどのような動作が起こるか予測できないので、恐くて使えないことになるよね。でも今の僕たちはほんの少しの疑念も持たずに、それらを使いこなしている。つまり、経験上、「時間順序保護」は疑う余地がないと知っているんだ。
ところで、ジジイが「人間には自由意志などなかった」という発見に至った経緯をお話する前に、人間の行動のメカニズムを知ってもらわなければいけない。それは人間の身体の内部に張り巡らされている神経系の働きや筋肉の働きを理解してもらうことなんだ。つまり、人間の神経系や筋肉の「原因⇒結果」を知ることだ。
だけど、これはちょっと長い話になりそうなんだ。
それで文末に【*補足】として書いておくので、ここでは結論だけを受け取ってほしい。(でも時間がある時に必ず【*補足】を確認してくださいね。図解を入れて一生懸命説明しました)
結論だけを話してしまうと‥‥
人間の行動のメカニズムは、
【1】脳を取り巻く《環境》から、何らかの刺激(情報)が入力される。
【2】その刺激(情報)が電気信号に変換されて脳の対応する部位に届く。
【3】脳内に蓄積されている「記憶」や「言葉」との作用により、その人なりの反応をする。この反応の一つが、その人の【意志】と言われていたものである。
【4】その反応(=意志と言われていたもの)が脳から電気信号になって発信される。
【5】例えば、「指を曲げよう!」という電気信号が指の筋肉に届き、カルシウムイオンが放出され、筋収縮が起き指が曲がる。そのよううにして我々はしゃべったり動いたりしていた。
‥‥ということだ。
つまり、我々がしゃべったり動いたりするためには、最初に、《環境》からの何らかの刺激(情報)が入力される必要がある。
ここでも「原因⇒結果の一方通行」という科学の大原則を逸脱することはない、ということだ。
この大原則からわかることは何だろう!?
先ほど、「何物の影響も受けない、自発的な決定に基づく思いのことを《自由意志》と呼ぶ」と定義したけど、もし「意志」だけは何物の影響も受けないとすれば、意志に関しては原因となるものが存在しない、ということになっちゃうよね。
そんなことは、科学の大原則に照らし合わせても考えられないことだ。
そこでだ。僕たちの「意志」も、なんらかの原因があって、この脳に浮かび上がってきたものであるなら、「意志」とは、今まで考えられていたような「自分由来」ではなく、「環境由来」だったということになる。
そうだとしたら、それは自分の「自由意志」とは呼べないよね。
こんな簡単な論理でも、「人間には今まで信じられていたような自由意志などなかった」という結論を導き出せるのだけど、他にもたくさん根拠はある。
いろいろな人の実験(思考実験も含む)から、それを見ていこうと思う。
その前にちょっとだけ聞いてほしい。今では、誰もが、生物は自然発生などしないと知っているよね。でも、1861年に、パスツールが生物は自然に発生することなどないことを実験によって証明するまでは、多くの科学者たちが「生物自然発生説」を信じていたらしい。
![パスツールの実験](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/41939702/picture_pc_a8a8d01722258dd3db4323b58be417a7.jpg)
生物は、まるで「うじが湧く」という言葉のように、自然発生的に湧いてくるものかもしれないと考えられていたんだ。その間違いをパスツールが上のような実験で証明した。詳細が知りたければ、インターネットで検索してみてください。
1861年に「生物自然発生説」という、おとぎ話から人類が卒業したように、科学時代を生きている僕たちは、「自分は、何からの影響も受けず、自分の力で自由に《意志》を自分の脳内に生み出して、自分の行動を決定している」などという「意志自然発生説」などという勇者伝説から、この2021年、卒業しませんか!?
それが世界を平和にして、全人類が幸福に生きるための視点だからです!
5.自由意志などなかったと知ったジジイの思考実験
まず、自分に「記憶」というものが全くなかったらどうなるかと想像してみてほしい。自分が生まれたばかりの赤ん坊だと思えばいい。
僕たちは、目の前のモノが自分にとって何を意味するものなのかを理解したり、何かを思考したり判断したりするだろうか?
あらゆるものが、自分の前をただ素通りしていくだけだと思う。
記憶とは、物を認識したり思考したり判断したりするために必要なもの。
蛇足だけど、小さな虫たちにも「記憶」というものがある。遺伝子情報という記憶だ。言葉を持った人間と同じとは言えないけど、これが、人間の「認識」や「判断」に近いことができている理由だ。もちろん言葉がないから「思考」はしないけどね。
また、例えば、蜘蛛が親にも教わらずにあんなにすごい蜘蛛の巣を作ったり、蜂が蜂の巣を作るのも、遺伝子情報という記憶だ。
話を人間に戻すよ。そしてここが大事なところだけど、「記憶はどのように作られたのか?」
もう一度、自分が生まれたばかりの赤ん坊になったと思って、考えてみてほしい。
「記憶」とはオギャアと生まれて生きて行く中で、少しづつ蓄積されていくものだよね。生まれたばかりの時は、遺伝子情報という「記憶」が作る原始反射(こちらが差し出した指をぎゅっと握ったり、何かを吸う反射、空中で足をバタバタさせる)と言われる行動しかしないよね。
それがやがて、自分を守ってくれる人たちの顔を覚えたり、食べ方や歩き方を覚えたり、物の名前を覚えたり、言葉を覚えて行く。
それはみんな《環境》が、その子どもの脳に作っていくものだよね。
まだ《環境》にいないアンパンマンに憧れる子どもはいないし、《環境》にないバジュゴリ語を、いきなり話し出す子どもなんていないものね。
「記憶」とは、先祖という《環境》から代々続く遺伝情報という記憶も含めて、全て《環境》に作られるものなんだ。
大事なことなのでもう一度言うよ!
「記憶」とは、あくまでも《環境》に作られるもので、自分自身が勝手に作るものじゃない!
《環境》にないものは、僕たちは決して記憶することはできない!
ちょっと考えれば、当たり前のことだよね。
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長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。