【ソロス物語 第9章】終わりなき闘争と喪失──影を纏う「開かれた社会」
ジョー・バイデンが大統領に就任した後、ジョージ・ソロスは新たな希望を抱いていた。アメリカが再び多様性と平等の旗を掲げ、トランプ時代に引き裂かれた社会を癒し、民主主義の理想へと向かって歩みを進めると信じていた。しかし、現実は想像とは異なっていた。
バイデンの政策と社会への負の影響
バイデン政権は、社会福祉拡充や気候変動対策に莫大な予算を投じ、グローバルな協調を掲げて動き出した。だが、これらの政策には賛否が分かれ、経済に深刻な負担がかかり、特に中間層や労働者層にとっては厳しいものとなった。インフレが進み、物価が急騰し、日々の生活に苦しむ人々が増えていった。
一方で、ソロスが推し進めた「ソフトオンクライム」や「司法改革」は、犯罪者への寛容な姿勢を示す政策として、アメリカ社会で賛否を巻き起こしていた。ソロスは「犯罪者は治療が必要であり、罰だけでは更生は得られない」と信じ、軽犯罪や非暴力犯罪に対する刑罰を緩和するために地方検察官の選挙に資金を投入し、刑務所からの早期釈放を推進する検察官たちを支援した。この「ソフトオンクライム」アプローチにより、多くの犯罪者が裁判所で厳罰を免れ、治安の悪化が懸念される状況が次第に増えていった。
治安の悪化と都市部の混乱
特に、ニューヨークやシカゴ、サンフランシスコといった都市部では、軽犯罪への処罰が緩和されたことで、窃盗や暴行事件が増加した。小売店が次々と盗難被害に遭い、一部の店舗はついに閉店を余儀なくされた。窃盗犯が逮捕されても、数日で釈放され、また再犯に及ぶという悪循環が生まれ、住民の間では「法の力が弱まっている」との不満が高まっていた。
また、不法移民への寛容な対応も、社会に大きな影響を及ぼしていた。バイデン政権は、より多くの不法移民に対する法的支援や、職業訓練、医療や住宅支援などの福祉を提供する方針を掲げた。これにより、アメリカ国内に流入する移民の数が急増し、予算の大部分が福祉サービスに割かれ、財政的な負担が増加した。州政府や地方自治体は、増加する移民への対応に追われ、住民へのサービスが圧迫される結果となった。
さらに、一部の都市では不法移民により治安が悪化したという声が高まった。特に南部の州では、犯罪件数の増加が報告され、麻薬取引や暴力事件に関与する移民が増えているという統計が示されるようになった。これにより、住民の間で不安が広がり、「開かれた社会」を求めたはずのソロスの政策が、逆に社会の不安定化を引き起こしているとの批判が強まった。
司法の武器化
さらに、ソロスは「開かれた社会」を実現するために、司法システムそのものを利用して政治的な影響力を強化していった。彼が支援する地方検察官たちは、「ソフトオンクライム」のみならず、特定の政治思想を持つ者への優遇や対立する立場の者への不利な扱いを暗黙のうちに推進し始めた。例えば、暴動や抗議デモでの逮捕者に対しては寛容な処置が取られる一方で、保守的な団体に対する行動には厳格な法の執行が適用されるといったケースが見られるようになった。
こうした選択的な司法運用は「司法の武器化」として批判され、反対派からは「法は全ての人に平等であるべきだ」との声が上がった。だが、ソロスはそれを「正義のための改革」であると捉え、政策を通じて理念の実現を図っていた。しかし、この選択的な運用は、治安悪化に加えて社会の不安感をさらに高める結果となり、多くの国民が司法システムへの不信感を抱くこととなった。
ウクライナ戦争とソロスの影響
2022年、ロシアがウクライナに侵攻したことで、世界は再び戦争の恐怖に包まれた。だが、この戦争の背景には、ソロスの影響も見え隠れしていた。彼がウクライナで行ってきた活動が、ウクライナの民主化運動を加速させ、特に2014年のマイダン革命においてソロスの財団が支援したことは、ウクライナの方向性を決定づける重要な要因となっていた。
マイダン革命の結果、親ロシア政権が倒れ、ウクライナは西側諸国との関係を強めていった。しかし、この変革はロシアにとって脅威と見なされ、ウクライナを巡る緊張が高まる一因となった。ソロスは、ロシアが全体主義国家としての支配力を強め、ウクライナに対する圧力を増していることを憂慮し、ウクライナが「開かれた社会」を守るために戦うべきだと信じていた。
彼はアメリカやヨーロッパ諸国に対して、ウクライナへの支援を強化するよう訴え、財団を通じてウクライナの支援に資金を注ぎ込んだ。だが、その結果として戦争は長期化し、ウクライナの人々は厳しい現実と直面し続けることとなった。
開かれた社会を推し進める権力者
ソロスはウクライナ支援を続ける一方で、いつしか「開かれた社会」を目指すために自らが巨大な権力を行使していることに気づかぬうちにいた。少年時代に全体主義の脅威に怯えながらも「自由」を求めた彼は、今やその自由を実現するために膨大な資金と影響力を駆使し、独自の価値観を社会に押し付けている。周囲には異を唱える者もいたが、ソロスは自らの理念に従い、彼らを黙らせるための手段をも厭わなくなっていた。
彼は一度、ふとした瞬間に「14歳のころが最も幸福だった」と漏らしたことがあった。戦争の渦中、ただ自由への憧れを抱き、父の手に守られたあの日々──彼の心には、僅かな葛藤があったのだ。
しかしソロスの心の根底には、かつての戦争に対する怒りが色濃く残っていた。幼い頃の彼が目にしたナチスの残虐行為、迫害を避けるために隠れなければならなかった日々、そして全体主義によって命さえ奪われかねない恐怖。ソロスの心にはその時の無力感と恐怖が深く刻まれていた。「もう二度と、あの暗い時代を繰り返してはならない」と強く思った彼は、自由を守るためにすべてを賭ける覚悟を固めたのだった。
彼にとって、「開かれた社会」を実現することは過去の戦争と暴力、全体主義への復讐とも言える。自由のない世界を再び許すわけにはいかない──それが彼を駆り立てる原動力であり、他の何にも代え難い強い願いだった。
そして彼は「開かれた社会」を目指す道を歩み続けることを選んだ。
悲願のロシア、そしてイランの打倒
ソロスにとって、全体主義の大国であるロシアとイランは、彼が打倒すべき最後の障壁だった。ソロスは彼らの圧政と闘い続け、「開かれた社会」の実現を追求し続けることが、自らの使命であると信じていた。全体主義と闘うためには、手段を選ばず、力を駆使して戦わなければならない──その信念が、彼の行動を突き動かし続けていた。
こうして、ジョージ・ソロスは自らの歩む道が果たして正しいのか迷いながらも、決してその歩みを止めなかった。彼は自身の中の微かな疑念を抑え込み、理想のためにさらなる戦いに挑み続けた。そして、彼の目は、世界の命運を分かつ最後の戦場へと向けられていた。
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