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【怨恨の起源】イランが反米国家となった理由

米国の前大統領ドナルド・トランプがなぜイランに命を狙われているのか。そしてトランプはなぜイランを敵視するのかについては前回の記事でまとめさせていただきました。

西側諸国の情報では、イランこそが悪の枢軸との情報が多いですが、歴史を辿ればそうとも言い切れない部分があると私は思いました。

今回の記事では、イランがどのように反米国家になったのかという歴史についてまとめましたので、ぜひともご一読いただけますと幸いです。



イランが反米国家となった背景には、歴史的な出来事が大きく影響しています。

特に、1950年代からのアメリカの内政干渉、1979年のイラン革命、アメリカ大使館人質事件、さらには経済制裁や軍事的対立が、イラン国内での反米感情を強めていきました。

これらの出来事により、イラン市民は多くの犠牲を強いられ、国内ではアメリカに対する強い敵意が形成されていきました。


1. 1953年のクーデター(アジャックス作戦)と市民への影響

イランの反米感情の起源は、1953年のアジャックス作戦によるクーデターに遡ります。

当時のイラン首相、モハンマド・モサデクは、イギリスのアングロ・イラニアン石油会社(現在のBP)が独占していたイランの石油産業を国有化し、イランの資源を取り戻そうとしました。

しかし、イギリスとアメリカはこの動きを脅威と見なし、モサデク政権を打倒するクーデターを計画しました。

このクーデターは、アメリカのCIAとイギリスのMI6によって実行され、親米的なパフラヴィー朝のシャー(モハンマド・レザー・パフラヴィー)が権力を取り戻しました。

しかし、この過程で多くのイラン市民が犠牲となり、アメリカの介入による弾圧や逮捕が行われました。

シャーはアメリカの支援を受けて独裁的な統治を強化し、市民の自由を抑圧しました。

特に、秘密警察であるSAVAKによる拷問や監視が横行し、多くの市民が政府に反発しながらも弾圧に苦しむこととなりました。


2. イラン革命と1979年のアメリカ大使館人質事件

1953年のクーデター後、アメリカはシャー政権を支援し続けましたが、シャーの独裁的な支配と贅沢な生活は、イラン国民の間で大きな不満を引き起こしました。

市民の生活は困窮し、政府への抗議が広がりました。この不満がピークに達し、1979年にイスラム革命が勃発しました。

革命により、シャーは追放され、アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーが率いるイスラム教シーア派の指導者たちが権力を握りました。

革命後、アメリカに対する敵意はさらに強まりました。

特に、アメリカがシャーに亡命を認めたことがイラン国内での怒りを爆発させ、1979年のアメリカ大使館人質事件につながりました。

イランの学生グループがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人を人質に取りました。

この事件は444日間続き、イラン国内でのアメリカへの反発が公然化しました。

アメリカは、これに対し経済制裁を加え、両国間の対立は決定的となりました。


3. イラン・イラク戦争と市民の犠牲

1980年に始まったイラン・イラク戦争も、イラン国内の反米感情をさらに強めました。

アメリカは、当時イラクの独裁者であったサダム・フセインを支持し、イラクに対して武器や資金を提供しました。

この戦争はイランにとって非常に過酷で、イラン国内では多くの市民が戦争の犠牲となりました。

アメリカが敵国イラクを支援したことに対する反発は強く、イラン国民はアメリカを「自国を攻撃する敵」として認識するようになりました。

特に、1988年にアメリカ海軍がイランの旅客機を誤って撃墜し、290人の乗客が死亡した事件は、イラン国内での反米感情を一層悪化させました。

アメリカの軍事行動が市民の命を奪ったことに対する怒りが広がり、アメリカはイランにとって「市民を犠牲にする国家」としてさらに強く憎まれる存在となりました。


4. 核開発と経済制裁:市民への影響

1990年代以降、イランは核開発を進め、アメリカはこれを阻止しようと経済制裁を強化しました。

特に、イランの石油産業に対する制裁は、国民の生活に深刻な影響を及ぼしました。

イラン経済は制裁により大きく打撃を受け、インフレの高騰失業率の上昇など、市民の生活が困窮しました。

アメリカの制裁は、イラン政府の行動を抑制する目的でしたが、その結果、最も大きな犠牲を強いられたのは一般市民でした。

これにより、イラン国内での反米感情はさらに強化され、アメリカは「国民の生活を直接的に脅かす外敵」として認識されるようになりました。

2015年にイラン核合意(JCPOA)が締結され、一時的に制裁が緩和されましたが、2018年にトランプ政権が合意から離脱し、制裁を再び強化したことで、イランとアメリカの関係は再び悪化しました。

この経済制裁により、市民は再び苦しみ、アメリカに対する敵意が増大しました。


まとめ

イランが反米国家となったのは、1953年のクーデターから始まるアメリカの内政干渉、1979年のイラン革命と大使館人質事件、そしてイラン・イラク戦争や経済制裁といった出来事が積み重なった結果です。

特に、アメリカの介入によってイラン市民が犠牲を強いられたことが、反米感情を深める大きな要因となりました。

クーデターによる弾圧、戦争での犠牲者、経済制裁による生活困窮が、イラン国内でのアメリカに対する敵対意識を強化し、現在に至るまで続く反米姿勢を形成してきたのです。

アメリカが世界にもたらした恩恵は確かに大きいですが、それと同時に大きな憎しみも生み出してきたのです。

この憎しみの連鎖がいつ終わるのかは誰にもわかりませんが、米国企業への投資をする以上、イランの動向にも注意する必要があるでしょう。


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