環境を変えれば、価値も変わる
本日は、私が自分で捻り出したものではありませんが、『環境を変えれば、価値も変わる』というテーマで、思う所を書いてみようと思います。
安く扱われているなら、逃げよう
そこそこ長く生きているので、自分がまるで存在価値のない人間のように扱われたり、自分の自己肯定感を破壊されるようなことばを浴びせかけられたりしたことが何度かあります。どんなに相手の態度や言動が慇懃であったとしても、「この人は自分を軽く見ているな」「この人は自分に関心がないな」という空気感は伝播するもので、そうするとこちらも心を固く閉ざすことになります。
もっとも逆も真なりで、自分も無意識のうちに相手にそういう態度を取ってしまっていることがあり得ます。実際、ある時点から関係が一気に冷え冷えとしたものになり、表面的な関係に落ち着いてしまう場合も少なくありません。実際問題として、「私をリスペクトして下さい」「私は偉いんだぞ」という雰囲気を滲ませている人と対峙するのは、なかなかにしんどいものがあります。
言えるのは、自分が安く扱われている、と感じた場所からは、逃げておいた方が無難だということです。まだ未熟で、何事にも自信が持てずにいる時であれば、謙虚になって辛抱したり、反骨心を胸に抱いて耐えたりすることも有益だとは思いますが、一度しかない人生をどの環境で頑張るかは、頗る重要だと思います。
中身は同じ商品であっても、スーパーで安売り対象品や見切り品として叩き売られる場合もあれば、富裕層向けの高級品店で定価もしくはプレミアム品として売られる場合もあります。みすみす、安売り品になる必要はないし、自分が身を置く環境は慎重に模索すべきと思います。
脱走兵の話から
先日『文化の脱走兵』(講談社2024)というエッセイ集を上梓した、奈倉有里氏が書かれていた内容(誰かのことばの引用)に「勇敢に戦った兵士は、戦争の趨勢次第で犯罪人にも英雄にもなり得る。しかし、脱走兵は争うことから逃げたという一点で偉大だ」という趣旨のものがありました。
私は価値観が凝り固まっているせいか、祖国や仲間を裏切り、迫って来る敵と戦わずに自分だけ逃げるのは卑怯だ、という思いが拭えません。ただそう思うのは、純粋に祖国を守りたい、愛する人たちを守りたい、という思いばかりではなく、そうしないといけないから、他の多くの人がそうしているから、と思考停止して、流れに従おうとしているだけのような気もします。逃げる勇気の方が、遥かにハードルが高そうです。
冷静に考えれば、「戦争」という望まない環境から逃れることで、自分を守り、存在価値を高めてより活躍できる可能性はあります。強要されて不慣れな戦闘に従事させられ、命を散らした人の中には、他の環境にいれば、得意とする力を発揮して人類に多大な貢献ができた人もいたはずです。
勿論運にも左右されますが、どの環境に身を置くべきか、は真剣に、慎重に、決めるべきことだと痛感します。
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