貯蓄と浪費
今日は、『貯蓄と浪費』という不毛な二択について少し掘り下げてみます。特に着地点は決めていないので、後は流れのままです。
大いなる勘違い
私は、長年大きな勘違いをしていたような気がします。それは、『貯蓄=善、浪費=悪』という価値観に縛られて、大した疑いも持たずに実践に励んできたことです。せめて20代のうちに気付いていれば、方向転換が図れて、今とはまた違う景観が望めたかもしれません。
貯蓄が悪だとまでは、今でも思いません。努力と忍耐の成果として蓄積した貯蓄に助けられる場面も少なくないし、精神的安定をもたらす礎として機能する場面があることも認めます。他人に強制するのは間違いだと思いますが、自分自身に貯蓄を奨励することは間違いではないでしょう。
問題なのは、貯蓄の対立軸に浪費をセットして、二者択一で考えようとする発想です。本来全く異なる概念であるにもかかわらず、貯蓄と無理矢理並べられると、浪費は随分と悪いことのようにイメージされてしまいます。この為、浪費は絶対悪のような役割付けをされてしまい、忌避すべき行動のように扱われがちです。
浪費の効用
今の私の考えでは、貯蓄が悪だとまでは言えないのと同様に、浪費が善だとまで言う勇気はありません。際限のない浪費は阻止すべきだと思うし、浪費していることに無自覚なのは、やっぱり問題があると思います。
しかしながら、浪費という行為が、絶対的に忌避すべき悪だとまでは思いません。何が浪費にあたるのかは、個人の価値観によって変わってくるし、浪費を怖れて行動しないのでは、チャンスを疑い、本末転倒の結果を招くかもしれません。もしも生来の吝嗇化で、浪費に身を委ねる勇気すら持てないなのであれば、「浪費してしまった」という経験の機会を作るように生活習慣を改善すべき、とすら思います。
何が浪費なのか、という感覚が欠如している状態、すなわち基準を持っていないのは、逆に人生を歩む中で危険を孕んでいるような気がします。私は、本能的には浪費が嫌いであり、生産性の高い状態で日々の時間を埋め尽くしておくのが理想ですが、お金や時間や自分のエネルギーや他人の恩恵を浪費してしまって後で後悔する、という経験に、一定の価値を認めています。思い上がった自分にならないよう、ニュートラルを意識するためにも、時には浪費の罠にハマることは必要だと考えています。
貯蓄の効用
一方、貯蓄が絶対的な善ではない、と考えるようになったのは、それが行動の枠を築いてしまい、時に思い切ったことをする場合の障壁になったり、現状に安住して油断するような気がするからです。ある時期までは、一心不乱に貯め込む習慣があってもいいけど、どこかで行動変化して別のステージに移行すべきと考えます。
貯蓄は、あると何かと精神安定剤にはなります。人間関係の貯蓄があれば、精神の拠り所として機能します。困った時はお互い様と助け合ったり、気持ちの落ちている相手を元気付ける為に、エネルギーを使えます。世の中の役に立つことをしたいと願う時、自分の持っている貯蓄を棚卸しすることになります。そして適切な判断を下せます。無謀な失敗リスクを減らせる気がします。貯蓄は依存し過ぎない限り、武器になります。
武器として、貯蓄を使う為にも、浪費の概念は知っておく必要がありそうです。
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