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生き残りを極めた事例
昨日の記事で、Survival(生き残り)➡︎ Success(成功)➡︎ Sustainability(持続性)の順番で、意識する必要がある、という持論を展開してみました。
その格好の事例として、周囲を強敵に囲まれ、何度も窮地に見舞われながらも、「表裏比興の者」と呼ばれ、戦国時代をしたたかに生き抜いた名将・真田昌幸とその子、信幸(信之)・信繁(幸村)の有名な史実と戦略を辿っておきたいと思います。
真田氏ゆかりの上田市へ
この週末、真田氏の拠城であった上田城までドライブしてきました。松本から上田までは、山越えルートとなる風光明媚な国道254号線を使って、片道約35㎞、1時間強のプチ旅行となります。
上田城には、5年ほど前に家族旅行で立ち寄ったものの、その時はゆっくりする時間がなく、上田城址公園内にある二の丸跡や上田市博物館には入館できませんでした。今回の単独訪問では、真田氏の辿った史実や上田城の歴史についての知見を深めることができ、よい機会となりました。
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主君を次々に替えて家を守る
戦国武将の中でも、真田氏は人気があります。中山道を進撃してきた徳川秀忠軍を、狡猾な戦術で足止めし、天下分け目の関ヶ原決戦に遅参させた第二次上田合戦は有名です。2016年には、NHK大河ドラマ『真田丸』が放映され、信繁=堺雅人、信幸=大泉洋、昌幸=草刈正雄が演じたのは、記憶に新しい所です。
私も子どもの頃、真田幸村を主人公とする『真田十勇士』を読んで以来の真田家ファンです。武田氏➡︎徳川氏➡︎上杉氏➡︎北条氏と次々と主君を渡り歩き、日本国内を二分した関ヶ原決戦では、昌幸と信繁が石田三成の西軍、信幸が徳川家康の東軍に分かれ、真田家の命脈を保つことに成功しています。真田家は、徳川方についた信幸が信之と改名して家督を継ぎ、松代藩に転封されて以降も譜代大名格の扱いで、江戸末期まで承継されていきました。
真田家が採用した戦略は、小規模集団が強大な敵と対峙した際に、したたかに生き抜く為の優れた教訓と示唆を与えてくれるように思います。
歴史にifはないけれど
まさにギリギリの舵取りであったと思います。普通に考えれば、消滅していてもおかしくないような状況に連続して見舞われており、運に恵まれたことも否定は出来ないでしょう。
とはいえ、その運を引き寄せたのは真田氏武将たちの確かな実力と巧妙な戦略があったと確信するし、昌幸も信幸も信繁も、ひとかどの人物であったことは間違いないと思うのです。『深謀遠慮』の好事例として、心に刻んでおきたい歴史だと思います。
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