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忘れてはならない日の日記.... 2024/3/11

本日は、2011年3月11日(金)14:46に発生した東日本大震災から、13年目になります。あの衝撃の一日からもう13年の月日が経ってしまったのかと思う気持ちです。普段は完全に忘れていて、今日も朝起きた時点では記憶から飛んでいました。でも、あの日、あの時、日本に居た自分は、絶対に忘れてはいけない日にしないといけない気がしています。今年の3.11も、過去を振り返る日記を残します。

日本を変えた一日

2011年3月11日(金)の朝は、息子の1歳の誕生日を2週間後に控えた天気の好い日だったと記憶しています。行きの電車の中で、遠くに富士山が綺麗に見えた記憶があります。当時勤めていた会社は、その一週間前の3月4日が役員人事の対外発表日、その翌週が人事異動の発令日となっていて、柄にもなく室長を務めていた私も歓送迎会が重なり、年度末特有の慌ただしい週だったように思います。朝の時点では、やっと金曜日に辿り着いた… という気分で椅子に座りました。

午前中は慌ただしく来客などをこなし、昼イチの会議を終えて席に戻ってのが14時くらいでした。想像を遥かに超える揺れが始まる1分前の14:45には、エクセルを叩きながら、デスクワーク中でした。揺れ始めた時には、そこまで酷い地震だとは思わず、ヘルメットもかぶらずに机の下にゆっくりと身を隠そうとした瞬間にとんでもない揺れが始まりました。一時はこのままビルが千切れて倒壊してしまうのではないかと思うくらいの激しい揺れでした。その揺れがしばらく続き、最後の15秒くらいは死を覚悟するくらいでした。

そして、そこから生涯忘れ得ない時間が始まりました…

慌ただしかった…… 家に帰り着くまでの数時間

そこからが大変でした。当時のオフィスは12階でしたが、遥かに望む千葉方面から火の手が上がっているのがガラス越しに見えました。これはエライことになったと思いました。余震が次々と襲い、隣のビルが左右に激しく揺れているのがはっきりと見えました。気持ち悪くなり、そこから数週間は、常に揺れている感覚が抜けませんでした。インフラは無事でネットは繋がっていたので震源地が東北太平洋岸であることがわかりました。

もう仕事どころではなくなったので、何度も余震を感じながら待機しつつ、帰り支度を進めました。自宅に連絡したら、妻も息子も外出中の出来事だったので、そこまで酷い地震だとは思わなかったけど、信号機が激しく揺れていたので慌てて家に帰ったそうです。

17:00になって、社員退去or会社泊まりの指示が出たので、室員全員の緊急連絡先をメモし、家に着いたら何時でもいいから私の携帯に連絡するよう指示を出し、同じ横浜方面に帰る部下二人と徒歩で家路につきました。その年の1月から、私は昼食時にエレベーターに乗るのを止め、2階の食堂まで階段昇降をしていました。震災当時は、その習慣が2ヵ月経過し、体力がつき始めた頃でした。

そのお陰で、前半は好調でしたが、川崎駅付近の中華料理屋で腹ごしらえして、鶴見川を越え、横浜駅が近くなるあたりから流石に辛くなってきました。私よりも全然若い部下たちも革靴での長距離歩行はさすがに歩き抜くそうです。休憩を提案し、反町のミスドで甘いものを補給している時に、ふと空車のタクシーを部下の一人が拾いました。目を合わせ、「乗って帰ろう……」という意思疎通が成立しました。それでも、そこから自宅が一番近かった私が家のドアを開けたのは2時をまわっていました……

家族無事でよかったけど…

家は停電していましたので、息子を起こさないように部屋に入りました。すると突然電気が通り、テレビが点きました。そこから先は停電はしなかった気がしますが、画面の向こうの東北の惨状の映像は、もう二度と見られないような気がします。津波に呑み込まれていく様子を呆然と観ていました。

あれから13年……. 2024年1月1日にも巨大地震が能登半島・輪島を襲いました。これからも歴史は繰り返すのでしょう。地震と津波でお亡くなりになられた方に、心からの哀悼を捧げます。

過去の投稿より


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