感情とロジックは「水と油」

カッコウという鳥がいて、これは別の種類の鳥の巣に卵を生む。自分では養育せずによその鳥にそれをさせるのだ。カッコウのヒナが孵ると、まず他の卵とヒナを巣から全部おとしてしまう。仮の親鳥はそのカッコウのヒナを必死で育てることになる。

僕らはそれを純粋に「ひでえなぁ」と思うわけだが、カッコウにしてみれば別に良いも悪いもあるわけではない。遠い昔に何があってこんな生態になったかはともかく、カッコウは「それをした方が生き残れる確率が高い」からしているだけの事だ。別の種族なら集団生活で育てることを選んだかも知れないし、普通の鳥は番(つがい)の自分たちだけで育てる。カッコウは托卵を選んだ。単に最適だったからだ。

でもそれが、人間の僕らからは「ひでえなぁ」に思える。

飼っているネコが外出したとすると、そのネコは近辺の周回を始める。自分の生活圏を確認するためだし、他のネコに「ここは俺の場所だからね」とアピールするためでもある。見つけた小動物があれば捕まえて遊ぶか食べるかするし、家に持ち帰ってくることもある。トカゲを咥えて得意満面で戻ることなってよくある。

で、人間の僕らはそれを「ダメ!」て言っちゃうのだ。血相を変えてそのトカゲを引き剥がし、窓の外へ投げ捨てて、抱えたネコの一緒にそれを見ながら「バイバイしましょうね!もうあんなの獲ってきちゃダメだよ!」とやってしまうのだ。ネコにしてみれば狩猟本能の否定。なにを怒られたのかも判らない。飼い主と言えど怒りを感じるだろうなあ。まあネコの知能ではシンプルに「獲物を奪い取った」くらいの怒りぐらいになるのだろうけど。

ええと、これ「筋の通らない不自然なふるまいをしてるのはどちらなのか?」という問に仕立てたとしたら、どう考えても人間の僕らが❌なわけなのだけど、僕らにはこれがなかなか飲み込むことが出来ない。僕らは感情でものを決めて行動するように出来ているからだ。でもそれだって、本当はその奥底に本能が潜んでいる。他者のリソースを拝借して繁栄するカッコウを許せないのは、人間同士でそれをされたら自分の安全が脅かされるからで、それを認めない本能がまず存在する。ネコがトカゲを獲ってきた事を嫌がるのは、ネコという「家族」を人間同様に扱っており、そうであるから「おなじ規範で生きてもらわなくては困る」からだろう。

でもそれを、そうと自覚して生きていては手間がかかりすぎる。僕らはそこを「感情というショートカット」で瞬間的に決めるように出来ている。

田んぼだらけの中、誰もいない十字路。信号機がある。赤信号を無視しても決して誰も事故に遭わないだろう。そんなとき、つい信号無視をして走ってしまう人はいるものだ。街なかでついつい停止線を越えてしまう人もいたりする。それらは規範としては間違っているのだ。でも「生存戦略として」だったら?僕らはそんな矛盾を抱えた生物だ。ふだんはそこを見ないようにして生きてる。

まあだから、ビートたけしの往年のギャグ「赤信号 みんなで渡れば怖くない」は急所をクリティカルヒットしていて、だから物凄く騒がれたんだろうなあ。たぶんあれは、あれを知らない人ばかりになった頃に、きっとまた戻ってくるだろう。時にはそうして、感情の不合理を論理が斬ってくることがあってもいい。それがある方が、ない世界よりずっと健全という事なんだろうな。

(オチなしw)

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