いわゆる「会食恐怖症」への1つの指摘なぞしてみたり。

たとえば忘年会。望んではいないのにポツーンとなってしまう人がいる。開始から終了までが2時間くらいだとして、その2時間がものすごく長く感じてしまう人。ふだんと同じように、休憩中のような雑談でもしていれば良いのだけど、なかなかそうはいかない。話慣れた「いつものメンバー」ばかりとはなかなかならない席で、なんとかしてその2時間を過ごさなくちゃいけない。それがとっても苦痛。食べるのは楽しい。催しのビンゴゲームと商品は楽しい。でもビンゴで当たって壇上に上げられ「当選の嬉しさを一言どーぞ」はとっても嫌。カラオケは歌えないから嫌。雑談も間が持たないから嫌。なのに「若い奴は一曲ずつ歌えい」になってたりして。しかも歌ってる間、やらせた方は聞いてもいなくて、お隣さんとお話なんかしていたりする。

なんて言って、どこかしら「ああ、わかる」という、そんな人にだけ伝えておきたい事があるんです。

なんでこんな居心地の悪い行事があるんだろうとは思いませんでしたか?みんなどうしてこんな催しで、あんなに楽しく過ごせるんだろうって。これ「賑やかなのが好きな人だから楽しめるんだろう」「カラオケが好きな人だから楽しめるんだろう」とか、そんなふうに解釈しようとするといつまで経ってもわかりません。

ああした行事は、端的に言えば「イニシエーション」(儀式)です。

どこかの未開種族がやるというバンジージャンプ。やぐらを作って上り、足を紐にくくりつけて飛び降り、地面すれすれで止まって戻って来る。そうして自分の勇気という「内面にあるものを表明する」をしたとき、はじめて一人前として村が認めてくれるという、あれ。ネイティブアメリカン(昔はインディアンと言った)が、麻薬成分の強いタバコを吸わせて一人で旅に出す。そこで見た夢=幻覚を、戻ってきてから語らせる(ビジョンクエストと呼ばれています)。これをしたとき、成人として認められ、部族の大人として迎え入れられる。

ようするにこれなのです。職場といえども集団であり、彼らに意識されたことはなくてもそれは「ムラ」「部族」であり、その一員としての承認を確認するために、イニシエーションを必要としているんです。だから「普段は見せない、内面の部分を出す行為」を好んでさせたがります。カラオケが誕生する前は「宴会芸」というものがありました。お腹にラクガキをして、鼻に割り箸を突っ込んで、なんだかわからない踊りをする。これをやらないと「ノリの悪いやつだ」にされたとか。はい。バカバカしいですね。同感です。でもこれが人間というものです。

こういうノリが苦手な人にとっては、催しは「町のお祭り」のように、関わらずに外部から見てるだけのものであったならじゅうぶんに楽しめるのですが、なにしろイニシエーションですから「おまえも参加しろ」を要求されてしまうので、そこで苦痛を感じてしまいます。そのうえ、したくない歌をオロオロしながら歌ってみれば、相手は聞いてもいないんだから理解のしようがありません。「なんて非合理なやつらだ」と不可解に思うのも無理はない。でも彼らだって、カラオケの歌そのものが聞きたいわけじゃないんです。「そういう場にいること」を求めてるだけ。

まあ、これをこう解説したからってどうなるものでもないんですが、「ただただ嫌なだけの謎の催し」を、理解だけでもしておきたいなあと。まあそれだけの事なんですけどねー。

じっさい、あの未開種族の誰かも思ってたんだろうなあ。「こんなとこからなんで飛び降りなくちゃいけねーんだよ」って(笑)

みんな大変だよね、という、そんなお話でした。

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