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〜全ては運であるという論考とリベラル派の偽善〜

第4回記事です



皆さんは、マイケル・サンデル教授の著書、「実力も運のうち 」という本をご存知だろうか。



実は私はこの本が世に出回る前から、サンデル教授と同じようなことを考え原稿を作っていた。(実は第3回記事がそれである)



この度、日本でもこの本が有名になり私の物書きとしての意識に火がついたので、このnoteを執筆することになった。



では何故このような原稿を考えていたのかと言うと、近年のフェミニズム論壇を見ていて、あまりにオタク趣味をバカにする言説が跋扈しているように思えたからだ。



現代のリベラルやフェミニズムは、差別とは何かをこのように説明する。 

変えられない先天的な特徴による区別」 

であると。




私はそのように騙るリベラル派に必ずこう問うようにしている。




能力、趣味による区別は差別ではないのか



そう聞くと彼らは決まってこのように返す。



能力や趣味は自分で後天的に変えられる。自分でない要素に強制されるものでないから、それらをバカにしても別に差別ではない。努力しない本人が悪い




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さて、ではここからこのリベラル派のバカげた論理に対しての反論を展開してみようと思う。




まず大前提として、私は「人間の意思」そのものに懐疑的だ。




例えば機械学習において、それの演算はそれまでの学習に依存する。 

では人間はどうか。



人間の意思決定、判断、それらはどこから来るものなのか、それを考えるとやはり努力というのも出力された「結果」であると言う風にしか考えられないのである。



人間の感情の動き、即ち脳の活動は化学反応、物理現象以外では有り得ず、そこに「何か魔法のようなもの」は存在しない。 

あるというのならそれを証明するべきだ。



そしてそれが物理現象だとすれば、「なるようにしかなっていない」のではと私は考える。



例えば、私が今こうして文章を書いているのは、リベラル派が非常に不快バカげた論理を展開しているからであり、過去にそれについて考える機会があったからではと。



これはマクロの話だが、ミクロの脳活動においてもその本質的な性質は変わらない。


物理法則に従って落下する物体と、我々の脳活動は、本質的に同じく物理現象であり、我々の「意思決定」とやらがそれに支配されているのだとすれば、もはや「努力しよう」という判断さえもそれに支配されることになる。


さて、ここで1つ重要な論点が出てくる。アメリカ人のAさんとイギリス人のBさん、同じ状況に置かれたとして、果たして全く同じ行動に出るのだろうか。



当然同じ行動に出る可能性もあるが、違う行動に出る可能性もある。



さすれば、これは物事を受け取った時にそれをどう演算するかのフォーマットが違うということになる。



個人の違いというものはまさにここに出る訳だが、ではこの意思決定のフォーマットは一体いつ、どのように形成されたものなのだろうか。



生まれてすぐだろうか。 

はたまた胎内であろうか。 

それとも生後3年程を数えた頃だろうか。



まぁ実の所、この時期はさして重要ではない。


重要なのは、今後の意思決定のいわば基盤となるフォーマットの形成に、時系列的に「意思」が干渉できないという点である。



この時点で、フォーマットの形成はおそらく環境と遺伝によって確定していくのであろうと考えられるが、当然自我が芽生えていない場合は環境に対して自分で積極干渉することは不可能だ。



そして、フォーマットはおそらく時を経るごとに更新されていく筈だが、その更新に干渉し得るファクターは、遺伝、環境、そして「今までに形成されたフォーマットにより作られた意思、行動」である。



となると、最初のフォーマット形成の段階では遺伝と環境のみが干渉できるとする私の仮説が正しければ、やはり人の人生、もっといえば意思決定は「遺伝と環境」、纏めてしまえば「」によって絶対的に左右されてしまうのではと考えられるのだ。



さて、ここまで来れば前述の、 

能力や趣味は自分で後天的に変えられる。自分でない要素に強制されるものでないから、それらをバカにしても別に差別ではない。努力しない本人が悪い




というリベラル派の理屈が如何に的外れ頓珍漢不快であるかがお分かり頂けただろう。




彼らは、他人に対して「無意識の差別!」「差別をするような人間は頭が悪い!」と石を投げつけてきた。



しかし視線を落としてその石の形をよくよく観察してみれば、それは石ではなくブーメランであったというオチである。




<まとめ>
要は、原子の働きによる物理的な解が全てということ。そして同一の状況に置かれたA氏とB氏が違う行動を取る場合はお互いの要素が異なるからで、その要素は意志が芽生えるよりも前に形成されている。意志が芽生えた後に変化する場合は、その要素に基づかざるを得ないから絶対的に運に左右される。故に「後天的に獲得され努力でどうにかできるものならバカにして良い」というリベラル派やフェミニストの理屈は全て無効である。差別に反対するのであれば、この世のあらゆる侮辱、蔑みに抗わなければならない。これに例外はない。


【追記】

原子単位での論を展開してきましたが、量子力学の不確定性原理をもとに反論を試みようとしても無駄です。「不確定性」原理なのですから、そこに自由意志を捩じ込むのは不可能です残念でした。




【曖昧さ回避】
上記の文章に登場する「フォーマット」は、
ラテン語における「形作る」から意味を取り
「型となるもの」という意味で用いています。

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