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リベラル批判 小論

随分と前に、「日本人に生まれたというだけで、日本人には価値がある」といった内容のツイートが大炎上した。


例によって、このツイートに放火したのは所謂「リベラル」を自称する界隈である。



曰く、「世界の全ての人に人として価値があるのだ!日本人だけに限定するとは何事か!」という思考からくるナショナリズムに対する批判の「つもり」であったらしい。(この時の自称リベラルの主張については丹羽薫さんのnoteに詳しく纏められているので、是非一読してもらいたい。)



しかしこれらの批判は、全く「的外れ」であり、よほど思考が「偏狭」であると言わざるを得ない。


そもそも、世界の全ての人に「価値」があるとし、それをアイデンテティとして確立するのには無理がある。



何故なら、アイデンテティとは交換不可能であるからアイデンテティ足り得るのであり、交換不可能なものが全人類に同量配られるのだとしたら、それはもはや「価値」とは呼べなくなるからだ。


だからこそ、それを「色分け」する必要があるのである。




それが例えば「アメリカ人」であったり、「中国人」であったり、今回槍玉にあげられている「日本人」であったりする訳だ。



しかし「色分け」とは飽くまで「色分け」であり「格付け」では無い。



「緑には価値がある」という言説が「黄色には価値がない」ということを意味しないように。



「其々に其々の価値がある」

正にこれこそ、当該ツイートを燃やしていた自称リベラルに欠けていた視点なのである。



彼らが「多様性」を叫ぶ以上、最も忘れてはならない考え方がここにある。


「偏狭なナショナリズム」などと宣って右派を馬鹿にしている場合ではない。



今日ここに来てリベラルは、己こそ偏狭な視点に縛られぬよう気を引き締めるべきなのである。

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