甘ったれない・・で
小学生のときからカミングアウトしてる友達がいたせいか、なんか他人ごととは思えないLGBT。このおおざっぱ過ぎるネーミングも好きでないってのもあるし、真夜中の弥次さん喜多さん知ってる人ならわかるとおり、日本って同性愛については欧米から輸入した自由なんか要らなかったんじゃないかと想像する。✖️✖️が絶対悪という教義自体が存在しないところでは、✖️✖️が世間から抹殺される要因になりはしない。
そのうえで、この記事(ジャックさん、生前はよく拝読していたブログ)を改めて読んでみた。
・・・なんかよくわかる。なんで納得するんだろ。
デリカシーのない世間にほだされて、大事な瞬間に勘違いしたまま、最後まで誰もそれを修正できなかったという大きな不幸。ジャックさんはその本質が「本人の甘え」だと分析しているのは意味深いと思った。
わたしはハンセン氏病でカミングアウトして生きてきて、今は作家として活動している伊波敏男さんとお付き合いがある。そのせいか、アウティング(本人が隠していることを公表してしまう)を犯さないよう、世間から守りながら苦しみを分かち合う・助けるのがどんなに大変でリスキーなのか知ってはいる。個々のその危険度は、本人と世間との関係で決まってくる。
身近な関係で甘える・甘えさせるのが世間の潤滑油だとか、嫌いな人や怖いものがなくなるのが良い・・みたいな本が大事に読まれているみたいだけどそれこそ、なんだかものすごい当事者意識の無い、デリカシーのない雑な考えに感じてしまう。それこそ扇動家の思う壺。普通の小学生として生活しながらも絶望的に閉ざされた空間で何年も虐待されてたり、物質的に豊かでも心理的な軟禁状態でずっと悩みを抱えている人たちが、そんなことで救われた気持ちになったり死なないで済むようになるだろうか・・・・?だって、悩みを解決できるのは悩みを抱えている本人しかいない。夜廻り猫の作者さんも言ってたけど、悩み相談された人が、悩んでる本人より考えてるわけがない。
悩みって、悩み続けてて大丈夫って環境になれば、消えてしまうことすらある。自分に生きてる価値があるから自信を持つんじゃなくって、価値なくて悩んでてもふつーに生きれる、って自信のほうがいい。まともに挨拶もできないぼぉーっとした与太郎がいつも可愛がられて生きていけたのが日本の世間だったんじゃないか。古典落語を聴いてるとそんな気がしてくる。
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