日本を愛する茶道オタク “ジョン如菴”ができるまで (日本語版) The Origin of Japanese Tea Ceremony Otaku ”Jon Jon”
こんにちは。如菴(Jon)と申します。僕の顔についているピンと伸びた髭は、実はアンテナです。このアンテナでビビビッと電波をお送り致しますので、私からのメッセージが皆さんの心に届くといいなと思います。
日本との出会い
私はアメリカ東海岸で育ちました。24歳で日本に来てから、早いもので24年が過ぎました。ちょうど人生の半分を日本で過ごしていることになります。
私と日本との最初の出会いは、子どもの頃に夢中で観た日本のアニメ『超時空要塞マクロス』(アメリカ版タイトルは『ロボテック』)でした。
「すごいぞ!こんな世界があるなんて!」
当時、マクロスはアメリカの男の子達の間で大人気のテレビアニメで、ロボットや飛行機、音楽が大好きだった私は、瞬く間に大ファンになりました。子どもの頃はそれが日本のアニメだとは夢にも思わず、それを知ったのは随分後になってからのことでした。
時が進み、高校に進学してからは、日系人のクラスメイトと仲良くなりました。ある日、彼女が『風の谷のナウシカ』が録画されたVHSビデオを貸してくれました。当時は英語の字幕なんてありません。私は日本独特のその不思議な世界観に魅了され、内容をどうしても理解したくて、何度も観て日本語を学びました。私は、その世界観を誰かの言葉を間にはさんで「解釈」するのではなく、純粋に自分の視点から理解したかったのです。
私が住んでいた田舎町では日本のお店はなく、今のようなネットショッピングももちろんまだありません。日系人や日本人の友人達から永谷園のお茶漬けや日清カップヌードル、緑茶のティーバッグ等をもらえた時は、飛び上がるほど嬉しかったことを今でも覚えています。当時の私にとっては、日本の新聞紙の切り抜き一枚でも宝物でした。
お箸の練習をして、自分で作った「なんちゃって日本料理」を食べたこともありました。少しでも日本を知りたくて、あれこれと試行錯誤したものです。
大学では「国際経営学部 日本語科」を専攻しました。私は日本オタク魂を炸裂させ、日本語を猛勉強しました。
大学の日本語クラブに所属し、部長を2年間務めました。クラブでは日本語を練習するラボ(実験室)での学習や、アメリカの学生と日本からの留学生の国際交流を行うイベントを開催したりしました。
舞い降りた幸運
大学2年生のある日、突然日本語科の先生から
「夏休みの2ヶ月、日本に行って日本の会社で働いてみないか?」
と誘われました。いわゆるインターンシップです。
なんでも、日本語科の先輩が行く予定で大学も企業もスケジュールを組んでいたそうなのですが、彼女が自信喪失し、直前にキャンセルしたとのこと。もし私が参加するなら渡航費や滞在費など負担してくれるとのことでした。
当時、貧乏学生だった私には「晴天の霹靂」「棚からぼたもち」のお誘いでした。
「こんな幸運があってもいいのだろうか?」
しかし、私も日本語の勉強を始めてまだ2年も経っていませんでしたので、自信がありませんでした。直前でキャンセルしてしまった彼女の気持ちはよく分かりました。とても悩みましたが、
「憧れの日本に行ける!」
というワクワクした思いが先行し、「Yes!」と答えを出したのです。
英語のことわざで「チャンスの神様は前髪しかない」というものがあります。
チャンスの神様には前髪しかないので、通り過ぎてからつかもうとしても後ろ髪がないのでつかむことができない。「チャンスは一瞬」という意味です。
今思えば、私はその前髪をつかんだのですね。とてもラッキーでした。
インターンシップでの経験は紆余曲折、楽しかったことも苦労したこともたくさんありましたが、初めての日本で、実際に日本人と接し、日本文化を直接肌で感じることができた最初の一歩となり、私にとって忘れられない経験となりました。
ちなみに、インターンシップでお世話になった日本企業は、静岡県にある矢崎総業株式会社です。私にこのような機会を与えて下さったことに、今でも感謝しています。
茶道との出会い
こうして日本漬けの毎日を送っていたわけですが、日本から帰国したある日、日本語クラブの先生からこう言われたのです。
「日本語を本当に理解するには、日本文化を勉強した方が役に立つよ」
これが、茶道の世界と私が出会う最初のきっかけでした。
日本文化センターで茶道を初体験した時の思い出は、別の機会にご紹介できればと思っていますが、初めて見たピカピカと光る木の床や広い畳の部屋にとても驚いたこと、先生の魔法のような帛紗捌きに見惚れたことは、まるで昨日のことのように思い出すことができます。
茶道と出会った後は、私の人生はますます日本一色に染まっていきました。
日本語クラブの先生からの勧めで、大学3年生で茶道部を立ち上げ、部長を務めました。その目的のひとつは、アメリカの学生と日本からの留学生をつなぐ架け橋となるためです。毎週お稽古と体験学習を行いました。人に教えるためには私自身がもっと茶道について学ぶ必要がありました。大変でしたが、とても面白い経験でした。
運命の出会い
大学卒業後は念願の日本へ再び渡り、横須賀市役所 国際交流課で3年間働きました。
当時、そこにはアメリカのコロンビア大学院生が研究に来ていて、彼女はホームスティしていました。私が来日した最初の週末に、彼女から
「ホストマザーと一緒に夕食を食べましょう!」
と誘われました。日本に慣れない私を気遣ってくれたのです。
私はまだ時差ボケで頭がボーッとしていたのですが、そこで出会ったのが、後に私の恩師となる表千家 遊々会 松本 宗紅先生でした。
宗紅先生の家に招かれ「お茶の先生だよ」と紹介された瞬間、私の時差ボケは吹き飛びました。なぜなら日本に来て茶道の先生を絶対に探そうと決めていたからです。
「来日して最初の週末に出会えるなんて!」
ご縁を感じた私は、すぐに
「入門したいです。弟子にしてください!」
とお願いしました。宗紅先生は笑顔で快く引き受けて下さり、私は早速次のお稽古から参加することになりました。
あの時に宗紅先生と出会っていなければ、今の私はここにはいません。市役所勤務を経た後は、内弟子として10年間、様々なことを学ばせて頂きました。
宗紅先生は海外へ茶道を広めることに熱心で、私はアメリカやスペイン、トルコなど世界各国で開催されたお茶会へ同行しました。
先生から「茶の湯英会話」教室をやってほしいとリクエストされた時は、先生のお役に立てると嬉しく思いました。海外へ茶道を広める為には、まず日本人が英語で茶道を紹介できるようにならなければなりません。私は「茶の湯英会話」教室を熱心に開催するようになりました。
自分が教える為には、自分も更に勉強しなければなりません。学ぶべきことは山のようにありました。期待に応えなければ失望させてしまう。それは一種のプレッシャーでもありましたが、茶道熱は更に高まりました。家元(不審庵)の短期講習会にも参加しました。
この頃の私は毎日必死に生きていましたので、出会いというものがどれほど大切かを理解できていませんでした。しかし、今ふり返ってみれば、私のこれまでの人生は幾多もの素晴らしい出会いがあり、それらを積み重ねてここまで辿り着くことができたのです。
この頃にお稽古で出会った小林 勇雄先生は、私が務めていた市役所の裏にある小学校の校長先生をされていました。時々、一緒にランチをする仲になり、後に引退されてからは二人で小学校を訪れ、子ども達に茶道を広めました。それは7年間続きました。
茶道は総合芸術と言われます。私は茶道をより深く理解する為に、和菓子作りや茶懐石、陶芸、庭造り、日本酒造り、三味線など、興味のあるものは何でも学びました。特に和菓子作りでは、お世話になった和菓子屋『壺屋』さんのお陰で、お稽古仲間に教えられるほどの腕前になりました。
結婚を機に関西へ
現在はご縁があって関西で暮らしています。
お茶の境地である京都の地で、表千家 家元教授 松本 英樹先生の元でお稽古に励みながら、宇治にある中村藤吉本店で働いています。
憧れの京都でお稽古ができること、その上仕事でもお茶に関わることができ、私はとても幸運です。
中村藤吉本店では、国内だけでなく海外からのお客様にも茶道体験を通してお茶の素晴らしさを広めたり、日常生活の中でのお茶の楽しみ方などをご提案しています。自分自身にとっても茶葉の勉強になり、お茶そのものを学ぶことができるので、大変興味深い日々を送っています。
アメリカにいた頃の私はシャイな性格でしたが(今もそうですが・・・)、「日本をもっと知りたい」という情熱が、私の心の扉を開いてくれました。どんな機会も逃がさないように、受け入れ、チャレンジしてみるようになりました。日本と出会えたおかげで私の人生は広がり、より実り豊かなものとなったのです。
私が好きな茶道の言葉の一つに「一期一会」があります。私が今、茶道家になっているのは、これまでたくさんの出会いがあったから。
新しい扉を開くと、そこにまた新しい出会いが生まれる。茶道を通して、人と人、国と国との架け橋となれたら。そしてその楽しさをたくさんの人々に味わって頂けたら。私にとってこれ以上の幸運はありません。
表千家 講師 帝都 如菴